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小説 - [影絵の夜]

 初めはそれが何なのかわからなかった。
 物音一つしない夜の森の中。月明かりの薄ぼんやりとした視界の中で、無数の木々が奇怪な影絵のように世界を形作っている。そんな中、風もないのにゆらゆらと揺れている物体があった。微動だにしない影絵の世界で、それはまるで異世界の存在のように思えた。しかし、私には予感があった。いや、確信と言ってもいい。それを確認するために、私はそれに近づいた。

 学校の裏山とでも言うのだろうか。実際には校舎の表側にあると思うのだが、こういう学校に隣接した山は、やはり学校の裏山と呼ぶのがしっくりくる。小さい山で、山と言うよりも森とでも言った方が正しいのかもしれないが、少なくとも私の小学校時代には裏山と呼んで通じていた。裏山は我々にとって格好の遊び場だったのだが、今はどうなのだろう。今の子供達は外で遊ぶことが少なくなって、裏山で遊んだりはしないのだろうか。
 昼日中だというのに辺りは薄暗い。うっすらと残る道らしき跡を、草木をかき分け、湿った土を踏みしめて進む。獣道ならぬ子供道とでも言おうか、子供達が駆け回ったせいで草木を縫うように道が出来あがっていたのだが、名も知らぬ草木が伸びて道が消えかけている。子供達がここで遊ばなくなって久しいのだろう。
 ふと思い立って、足元を見てみる。ねじくれた根の間の土に、エアガンの弾が埋まっていた。私は地面をほじってその弾を取り出してみた。小さなプラスチックの弾。何と言っただろうか。そう、確かBB弾といったと思う。子供の頃と言っても精々が二十年前のことだ。それなのにこんな事も覚えていなかった自分に少し驚いた。私はBB弾を指で弾いて捨てた。当時はサバイバルと称してのエアガンでの撃ち合いが流行っていた。二組に分かれて、相手を全滅させるか、相手の本拠地に置いてある缶に弾を当てれば勝ちだ。死亡は自己申告だから、弾は当たっていないと言い張る奴もいた。それが元で喧嘩になったりもしたが、正直、楽しかった。
 山は独特の匂いがする。こんな正式な名前が付いているのかどうかも怪しい小さな山であってもそれは同じだ。いや、実を言うと普通の山に匂いがあるかどうか、私は知らない。だから正確には、この裏山には独特の匂いがある、と言うべきだろうか。何の匂いなのかもよくわからないし、どんな匂いなのだと説明するのも難しい。私にとってそれは、懐かしい少年時代の匂いなのだと思うのだ。あの、秘密基地に友達と座り込んで嗅いだ匂い。
 そうだ、秘密基地。あれはどうなっているのだろう。私はおぼろげな記憶を頼りに道を外れて草木をかき分けて進んだ。本当はもっと別に入る場所があったと思うが、大体この方向であっているはずだ。方向さえあっていれば辿り着くだろう。もっとも、私の記憶など頼りにならないのだが。
 思っていた場所とは少しずれていたが、私は懐かしの秘密基地に辿り着いた。色々な所から集めて来た物で作り上げた、何に使うのかも定かではない秘密基地。斜めになったテーブルに、引き出しが一つしか残っていない壊れたタンス、そして穴だらけのソファー。昔より相当汚れてはいるが、間違いなく私達が作った秘密基地だ。ただ違ったのは、椅子や卓上ランプ等が増えている事と、以前はなかった二つ目のソファーに、一人の子供が座っている事だった。

 それはやはりあの少年だった。昼間、私と話したあの子が、今は不気味なオブジェと化して木の枝からぶら下がっていた。

 少年は私を見て驚いたようだった。もちろん私も驚いていたが、驚きは相手の方が大きかっただろう。ここに大人がやって来ることなどまずないのだから。誰も好き好んでこんな小さな森に入り込んだりはしない。それこそ遊び場を求める子供か、自然を学ばせようとやってくる小学生の団体くらいしかいないだろう。私が何と言ったものかと考えていると、
「おじさん、誰?」
と、先に声をかけられた。お兄さんと呼べ、と言おうと思ったが、子供の目にはおじさんとしか写らないだろうと思ってやめにした。
「ただの近所のおじさんだよ。散歩してるところさ」
 少年は警戒、と言うよりも、何も考えていないような顔で私を見ている。少年が何も言わないので、私は先を続けた。
「散歩してる途中で昔作った秘密基地の事を思い出してね。そこでここに来てみると、ぼうずがいたってわけだな。ええと、ぼうず、名前は何ていうんだい?」
 少年は口を開こうとしない。私を人さらいか何かと思っているのだろうか。人さらいだって好き好んでこんな所に来やしないだろうと考えると少し可笑しかった。
「まあいいさ。ここは今はぼうずの秘密基地なのか?」
 こくん。少年が首を縦に振った。
「そうか。じゃあぼうずが椅子だのを運んだのかい?」
 ふるふる。少年が横に首を振った。
「じゃあぼうずの前にここを改良した奴がいるんだなぁ」
 私は一人で納得していたが、少年を見ると、その様子があまりにも沈んでいるので何か不安な気持ちになった。子供ってのはもっと元気なものじゃあないのだろうか。まあ、こんな場所で見知らぬ男に出会えば黙ってしまうのもわからないではないが、それにしても妙に陰気に見える。
「ぼうずは何だかいじめられそうな顔してるよな」
 つい思ったことを言ってしまったのだが、驚いたことに少年は下を向いて、ポツリと、
「うん」
と言った。

 夜、私は家を出る際にロープをどこかにやってしまったことに気が付いた。恐らく少年と出会った秘密基地に忘れて来たのだろうと思ったのだが、どうやらそれは正しかったようだ。少年の首に食い込んでいるロープは私が持っていたロープに違いなかった。

 最近の子供のいじめというのは非常に性質が悪い。少年の話を聞いて私はそう思った。昔もいじめというのはあったが、それは精々無視をしたり、多少の暴力を振るう程度であったように思う。私が知らないだけで、もっと酷いこともあったのかもしれないが、少なくとも私の時代にはこの少年のような目にあった子はいなかったと信じたい。
 長い時間をかけて私は少年の話を聞いた。誰も聞いてくれる者がいなかったためか、一度話し始めるともう止まらなかった。初めは無視されるだけだったのが、暴力的ないじめが始まり、陰湿な精神的ないじめも加わって、それらはだんだんとエスカレートしていったという。手術をするほどの大怪我を負わされた事もあったが、友達と悪ふざけをしていて怪我をした、ということにされてしまったという。教師に相談してもいじめが酷くなるだけで、親に相談しても、大袈裟なことを言うなだとか、我慢しろと言われるだけなのだそうだ。それ以前に、まともに話しを聞いてくれないのだという。いじめ自体も酷くなっているのだろうが、教師や親にも問題があるのだ。つまりは昔とは環境が変わってしまったのだろう。
 私は少年を励ますようなことを言ったが、自分でも私は無駄な事を言っていると思った。私の知っているいじめは、大抵が自分を強く持てば何とかなるレベルのものだった。暴力と言っても、精々が二・三人程度の相手だったから、何度か無茶苦茶に抵抗すると相手は諦めたものだ。しかし、この少年の場合はまわりのほとんどが敵で、そして教師や親でさえも完全な味方ではないのだ。結局私が言ったことは、少年の教師や親が言ったことと大差なかっただろう。
 私は居心地が悪くなってしまい、少年に別れを告げた。最後に見た少年は、何だか妙にさっぱりとした表情をしていて、
「さよなら」
と私に言った。

 私は退屈な日常に飽きていた。かと言って、退屈でない日々に馴染める自信もなかった。つまりは人生というものに嫌気が差していたのだと思う。特に死ななければならない理由もなかったが、私はロープを手に懐かしの裏山へと向かったのだ。少年との出会いで気をそがれた私が、夜にまた裏山に向かったのも理由はわからない。思えば、今まで明確に目的を、自分の意志を持って生きて来てはいないのだ。周りに流されるようにただただ生きて来た。死のうと思う時にすら、特別な理由など私にはありはしないのだ。
 この少年は自らの意志で死を選んだのだろうか。彼もまた状況に流されるように死を選んだのではなかろうか。いじめにあったこと。親や教師に助けてもらえなかったこと。私に全てを話したこと。私の忘れていったロープを目の前にしたこと。それらの状況により少年は死を選んだのだ。みんな同じだ。誰であれ状況に対応して行動する。当たり前のことだ。私だけが流されているわけではない。少年も、他の誰であっても皆同じなのだ。私はそんなことを考えながら、ゆらゆらと揺れている少年を見詰めていた。

 私は子供の頃、この森の薄暗さが恐ろしかった。子供故の無邪気さで幽霊やら妖怪の存在を半ば本気で信じていて、木の陰から何かが現れそうな気がしてならなかったのだ。皆と楽しく遊んでいる間は気にならないのだが、いざ帰ろうという時には辺りの静けさと薄暗さが急に恐ろしく感じられた。そんな時、私は沈黙が訪れないようにひっきりなしに喋っていた。そして話すことがなくなると、私は空を見上げたのだ。木々の間にはいつもと変わらぬ青空が見えていて、それを見ると私は安心出来たのだ。
 私が少年から目を逸らして空を見上げると、暗黒の空に無数の星が瞬いていた。その中でも取り分け輝く星が幾つか確認出来た。あれは何という星座だったか。確かもう一つ星があるはずだ。私は位置を変えながらしばらくの間星空を眺めていたが、木々が邪魔をして結局目当ての星を見つけることは出来なかった。諦めて視線を少年に戻そうとしたが、すでに揺れは納まってしまったらしい。少年だった物体は影絵の中に溶け込んでしまい、もう、見分けが付かなかった。


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