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小説 - [終点]

 ふと気がつくと、一人でバスに揺られていた。他に乗客はいないようだ。はて、一体どこに行くのだっただろうか。窓を覗くとそこは一面霧の世界でまったく何も見えない。私は、この霧の中をよく事故を起こさずに走れるものだと妙に感心してしまった。それにしてもこのバスはどこに向かっているのだろうか。まぁそのうちどこかで止まるだろう。ゴトゴトという振動が眠りを誘い、私は瞼を閉じた。
「どこまで行かれるんですか?」
 不意にすぐ傍で声が聞こえ、私はビクッとして目が覚めた。見ると、隣に若い男性が座っている。見回すと、青年以外にも何人かの乗客が増えたようだ。
「どうかされましたか?」
 きょろきょろと辺りを見回す私に青年が不思議そうに聞いてきた。
「あ……、いや、ええと、あなたはどこに行くんですか?」
「僕ですか? 僕は二つ先の停留所までです。ちょっと人に会いに行くんですよ」
「そうですか」
「それで、あなたは……」
 青年がそこまで言ったとき、バスが停まって数人の乗客が立ち上がった。外はやはり霧の世界で、一体ここがどこなのかさっぱりわからない。
「あなたは降りないんですか?」
「いや、私は、その」
 空気の抜けるような音がして扉が閉まり、再びバスは走り始めた。とりあえずここはどこなのか、このバスはどこに向かっているのかを聞いてみた方がいいだろう。
「あの、変なことを聞くようですが、ここは一体どこでしょうか」
「どこって、バスの中ですよ」
 青年は平然と答えた。私の質問の仕方が悪かったらしい。
「いや、そうではなくて、ここはどの辺りでしょう?」
「ああ、そういうことですか。難しい質問ですね……」
「難しい?」
「そうですね、終点の近くまでは来てると思いますよ」
 終点の近くと言われても、私は終点がどこなのかを知らない。変人扱いされるかもしれないが、正直に自分の状況を話してみた方がいいだろうか。
「私は……自分が何故このバスに乗っているのかよくわからないんです。気がついたらバスに乗っていて、一体どこを走っているのかもさっぱりわからないんですよ」
「なるほど、そうでしたか。最近は多いんですよ、そういう人が」
「はぁ」
 青年はよくわからない事を言う。人を訪ねに来たと言っていたから、彼もこの辺のことはあまりよく知らないのだろうか。
 私は座席から立ちあがって、前に向かった。運転手に聞くのが一番手っ取り早い。バスの一番前に辿り着くと、私は運転手に声をかけた。しかし、反応はない。聞こえていないのだろうかと思ってもう一度声をかけたが、やはり運転手は何の反応も示さない。仕方がないので運転手の肩を叩こうとした時、後ろから声をかけられた。
「え?」
 振り向くと、一番前の座席に座った妙齢の女性が私を見据えていた。
「な、なんです?」
「無駄だって言ったのよ」
「は?」
「運転手はバスを運転するだけ。あなたの質問にいちいち答えたりはしないわ」
 何を言っているんだろう。まさか機械ではあるまいし、質問にくらい答えてくれるだろうに。
「……理屈じゃないのよ。そういうものなのだから諦めなさい」
「…………」
 私は何か言い返してやろうと思ったが止めにした。何を言っても無駄のような気がしたからだ。私は揺れるバスの中をバランスを取りながらふらふらと元の席に戻った。青年は霧で真っ白な窓の外をじっと見詰めている。青年には何か見えているのだろうか。私も何気なく霧の世界を眺めていると、青年がゆっくりと振り向いて言った。
「そろそろ次の停留所です。僕は降りますけど、あなたはどこまで行くんですか?」
 青年の問いに私は考え込んでしまった。一体私はどうしたらいいのだろう。現在地はわからないし、もしそれがわかっても私はどこに行こうとしているのかわからないのだ。このままバスに乗ってわけのわからない場所で降ろされるよりも、この青年と一緒に行った方がいいのではないだろうか。そう考えると私は青年に向かって口を開いた。
「あの、迷惑でなければ途中までご一緒させて頂いて構いませんか?」
「ええ、構いませんよ。じゃあ降りましょうか」
 霧に包まれていた。さっきまで座席に腰掛けていたはずなのに、いつの間にか私の足は砂利の混じった地面を踏み締めていた。傍には青年が立っているだけで、バスの走り去る音すら聞こえない。
「さあ、行きましょうか」
 一面の霧でまったく視界が利かないというのに、青年はまるで普通の道を歩くように進んで行く。私は慌てて青年の後を追った。
「この辺りは詳しいんですか?」
 あまりにも青年が霧の中をすいすいと進むので、思わずそう尋ねた。
「いえ、初めて来ました」
 振り返りもせずに青年は答えた。慣れていてもこの霧の中を歩くのは困難だろうに、一体どういうことなのだろう。
「目的地があれば、そう難しいことではないんですよ」
 私の心を読んだように青年の背中はそう言った。私は彼の言葉の意味がよくわからなかったが、聞き返すのは止めにした。また理解出来ないことを言われるのがオチだと思ったのだ。
 何時間経ったのだろうか。私たちはずっと霧の中を進んでいるが、一向に変化は現れない。青年は知り合いに会いに行くと言っていたが、後どれくらいでその知り合いの住む町だか村だかに着くのかと聞いても、「わかりません」とのこと。私はもう疲れ果てて歩くのが億劫になっているというのに、青年のペースはまったく落ちない。
「少し、休みませんか?」
 そう提案したが、聞こえないのか青年は変わらないペースでどんどん進んで行く。この霧では、十メートルも離れたら見えなくなってしまうのではないだろうか。私は必死に彼を追いかけているが、少しずつ離されていく。少しペースを上げて追いつかないと。私は歩くスピードを上げようとしたが、ふらふらになった足がもつれて地面に倒れこんでしまった。砂利が肌に食い込んで痛みを感じたが、そんなことを気にしている暇はない。立ち上がって服についた砂を落とし、私はまた歩き始めた。しかし、青年の姿は見えなくなっていた。急げばすぐ追いつけると思い、私は早足で歩く。霧の中を歩くうちに、早足では追いつけないような気がして私はとうとう走り始めた。だが、走っても走っても青年の姿は見えて来ない。
「おおーい!」
 とうとう叫びながら私は必死に走った。疲れきった足がもつれて思うように走れないのがもどかしい。何も見えない、白い世界の中を私はただひたすらに駆けていた。
 バスの振動が眠気を誘う。私は夢うつつの状態だった。さっきまで霧の中を走っていたと思ったのだが、あれは夢だったのだろうか。あんなに疲れ切っていたはずの身体には何の異常もないし、隣の席には誰も座っていない。あの青年も夢だったのだろう。この行き先もわからないバスは相変わらず霧の中を走っているようだ。
「次は終点よ」
 不意に話しかけられ、驚いて隣の席を見ると先程の女性が座っていた。
「終点、ですか?」
「そう、終点。もうお別れね」
 どういうことかと尋ねようとした時、車内アナウンスがかかった。
『次は終点、終点です』
 他の停留所ではアナウンスなんてかからなかったのに、終点だけはアナウンスがかかるんだなぁ、などと考えているうちにバスはゆっくりとスピードを落として停車した。辺りはやはり霧に包まれ、ここがどういう場所なのかまったくわからない。
「あの……」
 私は隣の女性に話かけようとしたが、そこには誰もいなかった。私はここがどこなのか誰かに尋ねようと車内を見回したが、バスの中には私の他は誰もいなかった。私はゆっくりと立ち上がり、バスの前まで歩いていったが、運転席も無人だった。一体どうしたものか。このまま無人のバスに乗っていても仕方がないし、バスの停まる場所なのだから、しばらく歩けば人のいる場所に出るだろう。とは言え、やはり辺りは白一色だ。私は恐る恐るバスを降りた。
 と、いきなり片方の手首を誰かに捕まれた。私が驚いて振り向くと、そこには真っ黒なコートを着た男が立っていて、私の手首を掴んでいた。
「な、なんですか!?」
 その、やけに陰気な顔をした男は何も言わずに私を引っ張って歩き始めた。いくら抵抗しても男は強い力で手を掴んだまま放さず、私は為す術もなく男に着いて行くしかなかった。男は霧の中を無言で進んで行く。もうすでにバスは見えず、白い世界を私は男に連れられて進む。私は男の行き先に不安を感じないでもなかったが、霧の中を当てもなくさ迷うよりはマシだと思った。霧の中をわけもわからずに手探りで進むより、誰かに連れられて進むのはなんと楽なことか。男がどこに向かっているのかはさっぱりわからないが、私はとりあえずこのまま着いて行こうと決めた。辺りはやはり霧で何も見えなかったが、もうそんなことはどうでもいいと思った。


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