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小説 - [水滴]

 遠くから雫の落ちる音。
 私はずっとその音を聞いている。動くたびにギシギシと軋むベッドの上にうずくまるように座り、水のしたたる音を聞いている。他にすることはない。自分が起きているのか眠っているのかもよくわからない。目を開けても閉じても何も見えはしない。五メートル四方のこの部屋には窓がなく、外界との接触点は入り口の扉のみ。その扉にはまったく隙間がないようで、完全に光を遮断しているのだ。私がここに入れられてから一度も光を見た事はない。ここはまったく光のない世界なのだ。
 もうどれくらいここにいるのか、私にはわからない。どうしてここにいるのかも忘れてしまった。ただ、昔はここから出ようと無駄にあがいたような記憶がある。だから、たぶん私は自分の意志とは関係なくここに入れられたのだろう。その理由は忘れてしまったし、別に無理に思い出そうとも思わない。今はただ、この遠くから聞こえてくる雫の音を聞いているだけだ。数えはしない。何度か数えたことはあったが、いくら数えてもきりがなかったし、数えているうちに私は恐くなってしまったのだ。この音が途切れたら、その後私は何をすればいいのだろうかと。耳に痛いくらいの静寂の中で、途切れた数字を抱えていつ再開するとも知れぬ雫を待っているのには耐えられそうにない。大体、私の数えるという行為によって雫が途切れてしまったらどうするというのか。大丈夫、私はまだ大丈夫だ。今の考えがおかしいということは理解できている。だが、雫の音に対して、ただそれを聞くという行為以上の事をするのが恐いのだ。要するに根拠のない事に対して怯えている、ただの臆病者というわけだ。
 長い時間音を聞いていたのか、それともごく短い時間だったのかはわからない。いつしか私を睡魔が襲う。急に襲ってはこない。彼らはゆっくりと私の脳に浸透して行く。私がどんなに抵抗しても無駄な事だ。何度追い払っても、彼らは再び襲ってくる。彼らは不死身の怪物なのだ。私は睡魔に抵抗することもなく、ベッドに横になり、体に薄い毛布をかけた。目を開けていても閉じていても同じことだと思うのだが、この目を閉じるという行為を意識的に行なうことが眠りへの導入となる。少なくとも、私はそう思っている。次に目が覚めた時もあの雫の音は聞こえるだろうか。それだけが心配だ。

 ふと、夢から覚めている自分に気づく。いつもの事だが、夢の内容は覚えていない。何か懐かしいような、ずっと昔の夢だった様な気もする。目尻に指を這わせると、少し濡れている。悲しい夢だったのだろうか。夢の中でくらいは楽しい夢を見たいものだが、残念ながら私には夢の内容を制御することは出来ない。寝る前に楽しいことでも考えていればいいのだろうか。私は闇の中で思わず苦笑してしまった。私の思い浮かべた楽しいこと、それは永遠にとまらない水滴の音を聞いていることだった。真っ先に、光を浴びるという光景を思い浮かべてもよさそうなものなのに。まったく、私はどうかしている。
 私はベッドから起き、扉へと歩く。扉の手前には食事が置いてある。私はどうやってこの食事がここに運ばれるのかをまったく知らない。すべては私が寝ている間に行なわれる。ずっと起きていては食事が運ばれることは決してない。眠って起きればそこには食事がある。今の私にはそれで充分だ。決して味の悪くないパンとスープをゆっくりと平らげ、私はまたベッドの上に座り込む。
 初めは音が聞こえない。不思議なことだが、意識して聞こうと思っても、規則正しく聞こえる雫の音は私の意識の裏側に潜り込んでしまい、しばらくは聞こえない。もちろん、本当に雫がもう落ちていないという可能性もある。だから、私にとってこの瞬間が一番ドキドキする、スリルに満ちた瞬間なのだ。耳を澄ますが何も聞こえない。私は必死に音を探る。いつも聞いているあの音をイメージする。一滴。二滴。三滴。イメージの中の雫はいつものリズムでしたたり落ちて行く。と、実際に雫のしたたる音が聞こえた。肩から力が抜ける。難関は越えた。後は眠くなるまで音を聞いているだけだ。一筋の光もない闇の中で、雫のしたたる音だけを。

 異変が起きた。私がここにもう何十年いるのかはわからないが、こんな事態に出くわしたのは初めてのことだ。
 その日、私は目が覚めた後、いつものように食事を摂ろうと扉に向かって歩いて行った。だが、私は途中で何かにつまずいてしまったのだ。しかも、硬い物ではなく、まるで生物のような柔らかい感触だった。とりあえず私はその謎の物体から距離をとった。一体何事だろうか。生物、なのだろうか。声は聞こえないが、微かに動いているような気配がする。やはり、人間なのであろうか。それとも犬か猫でも放り込まれたのだろうか。しかし、先程私が意図的ではないにせよ、つまずいた、と言うよりは蹴りつけてしまったのに、まったく声を上げないというのはどういうことだろう。気を失っているのだろうか。
 私は混乱しながらも、声をかけてみた。だが、長い間声を出していなかったためか、私の口からは掠れたような音しか出なかった。私は何度も咳払いをし、ゆっくりと声を出したみる。「あ〜、あ〜」大丈夫のようだ。早速尋ねてみる。
「オイ、あんた誰だ?」
 返事はない。だが何か蠢いているような気配はさっきからずっと続いている。
「オイ!!」
 私は出来る限りの大声で声を発したが、相手からの反応はまったくない。人間ではないのだろうか。私は急に恐ろしくなり、ベッドの上に戻って壁に背を押し付けた状態で座りこんだ。薄い毛布を体に巻き付ける。こんな毛布で身を守れるはずもないが、他には何もないのだから仕方がない。私は体が震えているのに気がついた。自分で自分を抱きしめるようにして、私は硬く目を瞑った。
 しばらくして落ち着くと、私は耳に全神経を集中させた。何の音も聞こえない。いや、正確には雫の音以外は何も聞こえない。どうしたのだろうか。私はそのまましばらく耳を澄ませていたが、先程の何者かが蠢く音は聞こえなかった。もしかして、私は夢を見ていたのだろうか。もしくは未だに夢の中にいるのだろうか。そうだ、今まで何の変化もなかったこの部屋に、急に謎の生物があらわれるという方がよほど奇妙なことだ。夢だったという方が納得がいくではないか。
 そう考えると私の気分は楽になった。ベッドから降りて、「何か」がいた辺りに近づいて行く。あれは夢だ。何もいるはずはない。そう思っても、確かこの辺だったと思う辺りでは、やはり恐る恐るといった感じになる。足の先で辺りを探るように慎重に進む。しかし、足先には何も触れる様子はない。やはり、先程のは夢だったのだ。あんなにリアルな夢を見、そして覚えているのは記憶にある限り初めてだったが。私はいつも通りに扉の前に置いてある食事を手探りで見つけ、ゆっくりと食べ始めた。

 部屋の隅に移動した俺は、ベッドの上で怯えている男を見ていた。薄汚い毛布にくるまって、ガタガタと震えている。一体どうしたというんだろう。気を失っている間に誰かの声を聞いたような気がしたが、あれはあの男の声だったのだろうか。そんなに怯えるなと言ってやりたかったが、今の俺には物を言うことは出来ないのでそれは無理だ。畜生、あの一階層の奴等め! 奴等にとって、捕らえた抵抗者を拷問にかける事など遊びに過ぎないのだ。人体実験に使われる事もあると聞いている。しかも奴等は笑っていた。俺の体にワケのわからない機械をあてがっていたときにも、奴等は笑っていたのだ!! 悔しさのあまり涙が滲んでくる。すべてをひっくり返すには、俺達はあまりに非力な存在だった。せめて、仲間達が逃げ延びてくれることを祈る事しか今の俺にはできなかった。
 俺が仲間の事を考えていると、男が急にベッドを降りた。ドアに向かってスタスタと歩いて行く。男は途中で急に立ち止まると、足で地面を探るように動かし始めた。あの男は何をしているのだろう。何とかコミュニケーションをとりたいが、あの怯えようでは今は無理だろう。俺はしばらく男の様子を見守る事にした。
 男は地面を足で探りながらゆっくりと進み、ドアの前に置いてある食事のトレイに手を伸ばした。その手は一瞬宙を泳ぐように動き、そろそろと探るように食事に手を近づけた。何か、精神に異常があるのだろうか。奴等の洗脳装置のせいで時たま精神に異常をきたす者もいると聞く。男はゆっくりと食事を終え、そしてそのままゴロンと床に横になり、動かなくなった。食事をして食欲が満たされたら今度は睡眠欲を満たすつもりの様だ。そうだ、俺も疲れきっている。睡眠をとって体力を回復させなくては。一生ここで過ごすのか、それとも処刑されるのか、どうなるのかはまったくわからないが、もし脱出のチャンスが来たときに体が動かなくては話にならない。俺はそんなことを考えながら眠りについた。

 天井が見える。視線を動かすと、入り口とは反対側の壁に、明かり取りのためか、鉄格子がはまった窓が見える。だが、その窓は高い天井にくっつくほどの位置にあり、ベッドを引きずっていってその上に乗っても届きそうにない。もっともこのベッドは完全に固定されているようだが。
 俺が起きると、ベッドに横になっていた。そして部屋の中には俺一人しかいなかった。俺が寝ている間にあの男は連れていかれたのだろう。恐らく、処刑されるために。俺は部屋中を調べたが、当然脱出できそうな気配はまったくなかった。とにかく、機会を待つしかないだろう。たとえば食事が運ばれて来る時、または俺が処刑場に連行される時にチャンスが来るかもしれない。
 とにかく、今は待つことだ。

 俺がここに入れられてから、どれくらい経っただろうか。あれから俺は、何も変化のない生活をしている。俺が寝ている間でないと運ばれない食事と、後は寝るだけしかない生活。何もすることがないというのがこんなにも辛いことだったとは、正直言って今まで知らなかった。いっそのことさっさと処刑してもらいたいくらいだ。自殺することも考えたが、この部屋でどうやって自殺すればいいものか。死を与えてくれる存在を待ってはいるが、強烈な自殺の意志があるわけではないので、なかなかに自殺する気にもならない。ただただ、無意味に時間が過ぎて行くのみだ。
 最近、どこからか音が聞こえる事に気がついた。水の音だ。正確には、雫のしたたる音と言うべきだろうか。この部屋の中ではない。この部屋にある便器から水が漏れている様子はない。しかし、どこからか水滴の音は聞こえてくるのだ。

 遠くから雫の落ちる音。
 俺はずっとその音を聞いている。動くたびにギシギシと軋むベッドの上にうずくまるように座り、水のしたたる音を聞いている。他にすることはない。自分が起きているのか眠っているのかもよくわからない。夢なのか現実なのか、その区別が難しくなっているのだ。五メートル四方のこの部屋には何の変化も起こりえず、外界との接触点は入り口のドアのみ。そのドアが開くのを目にしたことはなく、俺にはそのドアが現実との境界の様に思える。昔は現実に属していたはずの俺に残されたのは、過去の記憶だけ。それも、もう大分薄れてしまって思い出せないことも多い。だから俺は、来る日も来る日も何も考えずに雫のしたたる音を聞いて過ごす。ここはまったく希望のない世界なのだ。
 そんな俺にも、たった一つだけ心配な事がある。それは、この水滴の音が途切れてしまわないかということだ。この音を失ったら、俺はその後何をすればいいのかわからない。ただそれだけが恐ろしい。


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