高専は各都道府県に一つずつ、さらに○○電波高専と名のつく高専が全国に二つだか三つだか存在する。その中で、応援団のある高専は東北だけなのだそうだ。昔のことは知らないが、私が入団したときにはそう聞いた。応援団の存在する高専は、八戸高専(八専)・鶴岡高専(鶴専)・秋田高専・一関高専(関専)・宮城高専・仙台電波高専・福島高専(もう一つあったような……? まあよい)である。夏場に、これらの高専間運動部で、東北高専大会が催される。それこそが、我ら応援団にとっても一年に一度の大イベントなのである。
主幹校は毎年替わる。会場が八戸であったりすると移動にかなり時間がかかるので、三日間のうち、初日は移動日である。当然、大型のバスに乗り込むのであるが、我々はバスの中でも私語は厳禁である。他の運動部は菓子を食いながら馬鹿話をしているというのに、我々は腕組みをして黙ったままである。ヘタをすると三時間四時間とそのままなので、これはほとんど拷問に近い。挙句に、バスガイドに「前に座っている方たちは喋っちゃいけないとかあるんですかぁ?」などと聞かれ、運動部が爆笑したりする。最初の頃は腹も立ったが、数年後には気にならなくなった。自分のなすべきことをしているのであるから、別に笑われようと腹も立たぬ。これこそ押忍の精神であろう。
会場が遠い場合、高速の途中でサービスエリアに立ち寄ることがある。ここではカーテンを閉めなければ危険である。宮城高専や福島高専など、同じ方向から来ている他高専の応援団と出くわす恐れがあるからだ。大会中、応援団同士が出会ったら、その場で礼をしなければならないのである。しかし、カーテンを閉めたところで、我々も人間であるからトイレには行く必要がある。その際にはさすがにこそこそしたりせず、堂々と下駄をカランコロンと鳴らしながら移動する。高速のSAで、夏場に学生服姿の野郎どもが下駄の音を鳴らしながら歩いているというのはかなり異常な光景である。私が一年のときなど、小さな子供が我々を指差し、
「ママぁ〜、あれなぁにぃ?」
と言うのを、その母親が、
「見ちゃいけません!」
などと嗜めていた。我々を一体なんだと思っているのだろうか……。
我々がトイレに向っていると、トイレから運悪く他高専の応援団が現れた。今まで一列に並んで歩いていた我々は無言で整列し、相手が並ぶのを待つ。真夏のSAで対峙する応援団。まわりも何事かとやけに静かになる。そして、相手の応援団の指揮が頭を下げる(※1)。
「おぉおおおぃっす!!」
続いて相手の受け連中も頭を下げる。
「おおおぉぉぉおおおぃっすすす!!!!」
そしてウチの団長が頭を下げる。
「ゥォォオオオーーーーーーッッス!」
続いて我々受けも頭を下げる。
「ゥォォオオオオオーーーーーーッッス!!!」
数秒の空白。そして双方の指揮が頭を上げ、双方の受けも頭を上げる。双方の指揮は直立して、普通の礼をする。そして指揮は受けの方を向き、「よし、行くぞ」と言う。我々は「押忍!」と返事をし、また歩き始めるのだ。同時になにやら変質していたかのようなまわりの空気も元に戻る。
このように、我々は他高専の応援団と出会ったら、お互いに礼をするのである。移動中であろうと、応援前であろうと、休息中であろうと、それはかわらない。
主幹校に到着すると、我々はバスを降りる。運動部は開会式があるのかどうかはよくわからないが、本番は二日目からであるので、練習などをして後は宿に入るだけである。しかし、我々は初日からすでに本番なのである。大抵、正門近くに主幹校の応援団が待機しているので、まずはエール交換を行う。バスを降りた我々は慌てたりせず、しかし急いで団旗を上げ、主幹校の応援団と向い合う。エール交換とは、お互いに互いの学校に対してエールを切ることである。別段かわったことをするわけではない。だが、出迎えの際には少し違う部分がある。お互いに礼をした後、双方の団長が歩みよる。そして、二人だけで礼をした後、名乗りをあげるのである。主幹側の団長はその後、後ろを振り向き、一人の団員を呼ぶ。
「ウチの団員にお部屋までご案内させますので、時間までおくつろぎ下さい。時間になったらまた呼びに行かせます」
「押忍」
と、こんなやりとりの後、また礼をして、我々は部屋(といっても教室だが)に案内されるのである。礼をして案内役の団員が帰った後、団長の「よし、休め」との声で我々はようやく一息つくことが出来る。制服を脱ぐこともあまりはしゃぐことも出来ないが、休息時には私語が許されるのである。主幹校の用意してくれた飲み物など飲みつつ時間が来るのを待つ。これから、エール交換会があるのだ。一応開始時間が決まってはいるものの、全部の高専が揃うまでは始められない。後はとにかく待つしかないのだ。
ヘタすると数時間待って、ようやく主幹校の団員が呼びに来る。だがまずは団長会議が行われるのである。各高専の団長・相談役・親衛隊隊長の三人ずつが集まり、応援団の活動等について話合うのである。当然、応援団モードのままで。この席で、色々と応援団同士の取り決めがなされるのだ。
団長会議が終わり、団長が戻ってきて数分後、団長の「よし、行くぞ」の声と共に再び応援団モードに突入し、移動を開始する。エール交換会の始まりである。この移動にもやたら時間がかかる。移動中に他の応援団と出会った場合にも礼をしなければならないからである。三高専が同時に出会ったりするとかなり時間をとられてしまう。
校庭に全応援団が揃ったところでようやくエール交換会が始まる。このエール交換会というのがまた時間がかかるのである。A〜C高専の三高専で行うとしよう。まず、A高専が自分の高専にエールを切る。そして、次にA高専はB高専にエールを切る。すると、B高専はA高専にエールを切り返す。次にA高専はC高専にエールを切り、C高専はA高専にエールを切り返す。これが終わると、今度はB高専、C高専が同じことを行う。全部終わると、今度は各高専が自分の学校の校歌を歌い、最後に主幹であるA高専が東北エールを切り、それを全高専が受けて終わる。これを七高専分もやっていたら文字通り日が暮れてしまう。ただでさえ開始時間が遅くなることが多いので、大抵は返答エールを削った簡略版でエール交換会を行うことになる。
私が一年の時に驚いたのは、各高専によって「押忍」の言い方や礼の仕方が違うということである。電波高専では、「押忍」を、「ぅぉおおおおーーーーーーぃっすっ!」という感じにかなり伸ばして言うのだが、ごく短く「おぉういす!」という所もある。また、礼にしても、我々は前方を見たままで四十五度くらいまで上半身を傾けるのであるが、T高専などはまず真下を向き、「おおおおーーーっすっ!」と言いながら体を反り返らせるまで上半身を起こす、という方法であった。応援の技も各高専で色々と違い、見ているだけでなかなかに楽しめるものである。一年生のときにはとにかく全てが新鮮であり、かつ戸惑うことばかりであったように記憶している。
エール交換会が終わると、ようやく我々も宿に向かえる。宿に着いて、団長が「よし、正装解いて」と言うと、我々は完全に応援団モードを脱することが出来る。ただし、団長だけはまだ気を抜くことが出来ない。主幹校の団長が土産を持って宿に挨拶に来るからである。その時にも当然礼をする(※2)。宿の前で羽織袴姿の男が二人向かい合い、大声を張り上げて礼をするのは非常に迷惑極まりない。
普通人となった我々は、当然のごとく宿付近を散策する。皆は私服になっているが、私は学ランに下駄である。普段下駄で街を歩く機会などそうはないので、たまにやるとなかなかに気持ちが良い。ただし、デパートだのコンビニだのの床は下駄だと何故かよく滑るので少々危険である。また、まわりから変な目で見られ、子供に指指されることもあるので初心者は気をつけた方が良い。
さて、大会二日目である。我々は大抵二手に分かれて応援をする。野球とサッカーが応援のメインとなるのだ。他にはバレー、バスケ(※3)ぐらいで、他の競技(剣道・柔道・水泳・卓球・テニス等々)は試合中に応援することはしないし、出来ない。そこで、試合開始前にドサ回りと称して、各部にエールを切って回る。試合前であるからどの部もあまり良い顔はしないが、とにかく我々は各部を回るのである。体育館前に整列させられて、聞きたくもない我々のエールを聞かされ、挙句に心にもない「ありがとうございました」を言わされれば良い顔も出来ないだろう。エールを切って回るのは、「他の競技の応援で忙しく、また競技によっては直接応援出来ない競技もあるので今こうやってエールを送ることしか出来ないが、頑張って下さい」という気持ちから行っているのであり、エールだけでは気持ちが伝わらないのかと、私が団長のときには最後の普通の礼の際に「では頑張って下さい」と一言言うようにしていた。しかしやはり、我々はただ迷惑がられただけであったようだ。
野球の応援が一番キツイ。もちろん選手達の方が何倍もキツイのであろうから、我々応援している人間が弱音をはくわけにもいかないのだが、炎天下に学ラン(当然中にはワイシャツ着用)を着込んで、二時間・三時間と大声を張り上げるのは楽なものではない。それでも様々な技があるので、通常はある程度体を動かせるからいくらか気は紛れる(応援をしているのであるから気が紛れてもイカンのだが……)。しかし旗持ち(※4)は旗を持ったままじっとしていなければならず、これはまさに拷問である。
応援団の技はほとんど野球部向けに出来ていて、野球の応援ではすべての技が使用可能(※5)である。攻撃のときと守備のときでもまた違うし、チャンス時には場を盛り上げるべく、少しハイテンポで応援したりする。
しかし我々も人間である。最初の方の回でいきなり十点差をつけられたりすれば、「た、頼むぅ、コールド負けしてくれぇ〜」などとも思う。最悪なのは、コールド負けぎりぎりの点数でコールド確定の回をやりすごし、そのまま攻勢に出ることなく終わってしまうことである。残念ながら我が高専の野球部はあまり強くなく、そういった展開が多かった。さすがに団長になった頃には早く負けてくれなどと思うことはなくなったが、一・二年の頃は本気でそう思っていたものだ。
さて、勝つにしろ負けるにしろ、試合終了時には選手に向けてエールを切る。勝ったときには、それに加えて校歌(ただし一番のみ)を歌う。疲れ切った選手達は「早く休みてぇんだ、勘弁してくれよ」という顔をしながら我々の前に整列し、それを聞かされるのである。だから、我々も早々に終わらせるため、校歌をいつになくハイテンポで歌うのであるが、そんな我々の気持ちが通じた様子もなく、「ようやく終わったかコノヤロウ」といった表情で「あ(りがとうございま)したー!!」と言って去って行く。まあそれも当然で、本当に気遣っているのなら校歌など聞かせなければ良いのだ。まあそんなことを言っていても仕方がないのだが。
その後、相手高専の応援団とエール交換を行う。グラウンドの一塁側と三塁側に別れているため、相手の応援団との距離は遠い。私などは視力が悪い(※6)ので、豆粒ほどにしか見えない相手の応援団が頭を下げたかどうかもよく見えないため、非常に苦労させられた。
試合が終わっても、我々は休むことは出来ない。次に応援可能な競技をマネージャーに調べてもらい、すぐに次の会場へと向かわなければならないのである。運よく次の競技開始まで時間が空けば、我々はようやく休むことが出来る。その場合、安易に適当な場所で休むことは出来ない。他人の目がある場所で、応援団モードを解除するわけにはいかないのである。そこで、マネージャーに適当な隠れ場所を探してもらうことになる。大抵は校舎の裏側などである。まれに、他の応援団が先にそこで休んでいて、礼をして他の場所を捜しに行くこともある。とにかく我々は、応援団として活動している限り、人前でだらけた様子を見せてはならない(※7)のである。
大会の三日目も同様に応援を続け、試合が全て終ると、我々は疲れ果ててバスに乗り込む。帰りの距離が遠い場合、実は帰りのバスはかなりキツイ。我々は熱の篭った学ランを脱ぐことも出来ず、やはり腕組みをして黙ったまま座る。バスの冷房も体の表面を冷やすだけでかえって気持ち悪くなる。ぼうっとする意識の中で、はしゃぐ運動部の声が聞こえてくる。自分の呼吸が荒いのはわかるがどうにも直らず、途切れがちな意識を、腕組みした腕を強く握ることで繋ぎとめる。学ランを途中で脱いではいけないというのはただ単に応援団として格好をつけるというだけでなく、緊張感を維持するためなのだろう。もし応援と応援の合間に学ランを脱いでしまったら、再度それを身につけて次の応援が出来るかどうかは疑問である。帰りのバスの中では、そんなことをぼんやりと考えていたりする。
バスが学校に到着し、我々は団室へと移動する。遠足は家に帰るまでが遠足などと小学校の頃に聞かされたが、我々にとっては団室に戻るまでが大会である。クソ重い太鼓を下級生に運ばせ、我々は懐かしの団室へと入る。そして、団長が全員揃ったことを確認し、正装を解けと言う。
「くあ〜」
「は〜〜」
全員が一気に脱力する。しばらくは着替えもせずにぼ〜っとしていたりもする。確かに宿でも休んではいたが、三日間の疲れは確実に溜まっているのである。その後、全員が着替えを終え、反省会(これは日毎に行うので、宿でも行っていた)を行い、ようやく解散となる。
我々には試合に勝ったという嬉しさも、負けたという悔しさもない。応援をして感謝されることもない(※8)。応援活動をした充実感、いや、とにかく何かしら大会に関わって精一杯自分の仕事をこなしたのだ、というただそれだけの充実感に似た何かがあるのみである。このような特に遣り甲斐があるわけでもないアナクロとも言える応援団が、今後も存続出来るはずもなかったのである。