さて、みなさん。今回はこの私、スミレの友人である河村宏治氏の小論文をご紹介しましょう。彼は生まれてすぐに七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」と言ったとか、複数の人間の話を聞き分けたとか、五つのパンを引き裂いて五千人の腹を満たしたとか言われていますが、本人曰くデマだそうです。
彼は私が知る限り
「ドラえもんの存在意義について」 河村宏治 1. はじめに 日本の代表的な子供向けアニメーション番組に「ドラえもん」がある。勉強もスポーツもできない主人公のび太と、それを助けるために未来からやってきたネコ型ロボット「ドラえもん」の話である。劇中、困ったのび太をドラえもんが未来の道具で助けるというのがおおまかな話の流れとなっている。それでは、どうしてこのような番組が大衆に愛されてきたのだろう。今回はそれを検証したいと思う。 2. ドラえもんの内容の解釈 主人公であるのび太は、スポーツも勉強もダメだが、寝ることとあやとりと射撃とピーナッツの曲食いだけはうまい少年である。当然、普段の生活は失敗続きであり、まさにその失敗のためにドラえもんがいる。売りの一つでもある様々な道具を使い、のび太を助けようとする。しかし、のび太は道具を使っているうちに調子にのってしまい、さらなる失敗を招く、というのが大抵の話の流れである。この話はいったいどういった意味を持つのであろうか?結論から言うと、それは日本の管理教育社会を象徴した話であるといえるだろう。その理由を明らかにしてみよう。 まず、主人公であるのび太は、一般的な子供を象徴している。大人社会の中では、子供はほとんど無力であるといえる。それを、勉強もスポーツも何もできない無力なのび太に投影している。のび太(子供)ができるのは、日本の大人社会では何の意味も持たないあやとりや射撃、つまり遊びだけである。そういった主人公を作ることによって、子供に自らの無力さを無意識下にうえつけようという狙いなのである。ここで「ドラえもんがいるではないか」と思われる人がいるかもしれないが、彼の役割は次に述べよう。 ドラえもんが象徴しているものは、ズバリのび太(子供)の自立心、自分でなんとかしようという心である。のび太は、そういった心によって、自分の無力さをカバーできる道具(新しい能力)を得て、失敗(子供であるためのハンデ)をカバーしようとするのである。 ここまで読むと、「ドラえもん」は子供たちに自立、向上心を促す素晴らしい作品のように見える。しかし、実は大きな落とし穴が隠れているのである。 道具を得て、失敗をカバーしようとするのび太は、ほとんどすべての場合、さらに大きな失敗をしてしまう。つまり、子供はいくらがんばっても大人とのハンデを埋めることはできないと教えているのである。しかも、毎回道具か違ってもである。つまり、のび太は永久に失敗しっぱなしなのである。そもそも、のび太はしずかちゃんを出来杉くんと取り合っているわけだが、賢明な人ならすでに分かっているいるように、しずかちゃんは幸福の象徴であり、出来杉くんは無個性な学校人間である。一般的な視聴者である子供は、無個性な学校人間と幸福をかけてレースさせられているのである。そこで、失敗続きの子供ははたして幸福を手に入れることはできるのだろうか? 答えは否であるといえるだろう。普段はしずかちゃんは明らかに出来杉くんびいきであるし、ドラえもんは向上心の象徴なので、彼が見せる未来は、のび太が象徴する子供の願望でしかない。のび太が成功するには、出来杉くんのようになるしかないのである。少なくとも現状のままでは、失敗しつづけるだけでなのである。 3. まとめ
ここまで読んで、そんなバカなと思った人も多いと思う。しかし、それではなぜいつも話しはのび太が大失敗したままで終わるのだろうか? それは、子供に警告を与えるため、失敗することへの恐怖感をあおるためであろう。つまり、「ドラえもん」は、子供たちを無個性の学校人間に変え、学校管理をしやすくするための |
次回も河村宏治氏の論文を紹介したいと思います。
それではみなさん、科学する心を忘れずに。