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スミレ博士の研究室 - [第二回]

ら抜き言葉

 やあ、みなさん。今回は日本語のら抜き言葉についてです。
 ら抜き言葉が日本語としておかしいと言われています。食べれる(食べられる)、見れる(見られる)などです。しかし、言葉というものは時代と共に変わっていくもので、神代しんだい文字(漢字が入ってくる以前に日本に存在した固有の文字のことで、竹内古文献たけのうちのこぶんけん等もこの文字で書かれています。漢字以前に存在した文字としては、「アヒルクサ文字」や「高天原五行文字」等も存在し、古代岩刻文字ペトログラフもこのような文字によって刻まれています)の時代の言葉をそのまま現代で使っても珍妙なだけです。このら抜き言葉も進化した言葉であると言えると思います。
 「見られる」と言う言葉には、「見ることができる」と、「他人に見られる」という、可能と受動の意味があります。これらは文脈によって判断することができますが、その言葉単体では判断できません。そこで、「見れる」というら抜き言葉を使います。「見れる」という言葉には、「見ることができる」という意味しかありません。この言葉を用いることにより、「見られる」という言葉には受動の意味のみを当てはめることができます。

 しかし、よく考えると、どんどん言葉が変わっていっては大変です。現在私が製作している「強制再臨機」を使えば、ナザレの大工の息子が再臨し、すべてを同一の存在へと還してくれるので、言葉など不要となります。しかし、実験時に私の助手がいきなり手首の付け根から血を流し始めたので中止しました。どうやら聖痕現象を引き起こすのがやっとのようです。まだまだ改良の余地がありそうです。

 それではみなさん、科学する心を忘れずに。


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