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雑記


崩壊の日

 2002年二月現在、私の住んでいるアパートは月一万四千円という激安アパートで、学生寮や社員寮に次ぐその家賃の安さから想像出来るように、共同アパートである。風呂、トイレが共同なのは当然で、水道(及び調理場)までもが共同であり、まあいわゆるボロアパートの類であろう。風呂があるという点を除いては、めぞん一刻の一刻館のようなアパートを想像してもらうとわかりやすいかもしれない。もしくは、外から直接部屋に入るのではないという点では、旅館や民宿を想像してもらってもよい。このアパートは元々大家さんの経営する材木を扱う(何やら加工したりしているようだが、詳しくはわからない)工場というのか作業場というのか、とにかくその会社の社員寮であったものを、現在は主に学生に貸しているもので、アパートの隣りには作業場と事務所が存在している。
 さて、ある日突然、アパートの直隣りにある事務所の取り壊しが始まった。直隣りどころか、建物の一部はアパートと同一であるため、その破壊音や振動はなかなかに凄まじいものであった。まあ冬場は屋根から雪が落ちるだけでアパート全体が振動するような環境であるから、それ自体はさほど気にならなかったのだが、出かけようとした私は一階の出入り口の側にある扉の辺りをみて驚いた。

 うまく撮れなかったので写真ではわかりにくいだろうが、扉の上の壁がわりと豪快に突き破られているではないか。取り壊し作業に使用されているのは大型から中型クラスのショベルカーで、恐らくはショベルにて壁を突き破ったに違いない。
 その日の夜には壁の残骸は撤去されたようだが、その代わり、その壁は今でもポッカリと穴が空いているのだ。穴の部分が暗いのは夜に撮影したためであり、何らの保護もされていないのが現状だ。
壁を突き破ってるんじゃよ?
 これはこれで驚きだが、私が住んでいるのは二階で、アパートの出入りの際に近くを通るというだけで今のところはこれといった問題はないので、特に気にしないことにした。なんといっても一万四千円のアパートなのであるし、入居当初は一階の廊下に落とし穴のトラップまで存在したくらいであるから(さすがに現在は補修された)、これくらいはどうということもない。だが次の日、トイレに行こうとして部屋を出た私はさらなる衝撃を受けた。 ポッカリ穴が空いてるんじゃよ?
 おいおい、廊下の壁がぶっ壊れてるよ。 廊下から外が見えるんじゃよ?
 隙間風がビュービューじゃよ? 今は二月で、しかもここは北陸じゃよ? 雪が降るんじゃよ? すでに数日放置じゃよ? いくら廊下とはいえ、共同アパートゆえに部屋の外に出る機会が多いんじゃよ? 寒いんじゃよ? もう外が見えまくりじゃよ?
 これが破壊された壁側の外観である。誰がどう見ても、取り壊し直前の建物にしか見えまい。ここ数日は雪が降っていないので特に問題は起こっていないが、このままでは廊下に雪が積もる日も遠くあるまい。まあ、暗に立ち退きを迫っているのでなければ、恐らく数日中には何かしらの補修は行われるのであろうが、工事を行う前に一言くらい言って欲しかったものだと思う。アパートと一部屋根を共有している事務所を壊すのであるから、そりゃあ壁くらい壊れるやな。衝撃でアパート全体が崩れるようなことがなかったのは幸いである。 誰がどう見ても取り壊し直前のアパートじゃよ?

 夜半、雷が鳴り(私の住む地域では冬の雷は珍しくない)、土砂降りと言ってよいほどの雨が降った。もしやと思い廊下に出てみると、廊下が水浸しになっているではないか。この時期(二月)に、雪より先に雨にやられるとは予想していなかった。これはさすがに放っておけず、私は壊れて歪んだ板を蹴りつけて強引に元に戻し、とりあえずガムテープで補強した。これでしばらくは持つだろう。
 ところが。何故やらわからないが、壊れた壁以外の場所にも水たまりが出来ているではないか。良く見てみると、床と壁の間に隙間が出来ており、そこから雨が入ってくるのである。もちろん今まではこんなことはなかったので、つまり、工事の際の振動、あるいはより直接的な原因により、床に隙間が出来てしまったのである。

 最も酷い場所は、(恐らく)照明の関係でうまく撮れなかったので、とりあえず床の隙間からちょろちょろと水が流れ、水たまりが出来たところを載せてみた。左手側が外に面した壁であり、左から右に向かって流れている様子が見てとれると思う。奥の方は写真では暗くてよく見えない(実はこの廊下の照明は以前から切れたままである)が、もう水浸しである。床の隙間から水が入ってくるわ、壁の穴から雨が吹き込むわで、もう大変なことになっている。壁の穴は塞いだのでとりあえずは落ちついたが、油断は出来ない。 なんか水漏れしてるんじゃよ?

 この文章を書いていて思ったのだが、実はかなり酷い状況ではあるまいか。そりゃあ生活に困るというほどではないが、いくら安アパートとはいえ、そりゃあないだろうと言いたくなるレベルであろう。そのうちされるであろう補修を待ってはいられないので、朝を待って大家さんと直談判をする所存である。


駄菓子屋

 小学生時代、私は毎日のように駄菓子屋に行っていた。私の通っていた小学校の近所には駄菓子屋が二つあった。私がよく行っていた方の店は、どちらかというとあまり真面目ではない小学生の溜まり場であったように記憶している。店内にはテーブルが用意されており、そこでカップラーメンを食うことが出来た。私はそろばん塾をサボり、そこでラーメンを食い、残ったスープにラメック(10円のベビースターみたいなもの)をぶち込んで貪りながら友人達や店のおばちゃんとトランプなどやったりしていた。プラモ(当時はガンプラが流行っていた)だのモデルガンを作ったりしつつダベったりと、完全に溜まり場となっていたのである。金のないときでも行けるように、カップラなどを買い溜めして保管してもらったりもしていた。当時のエピソードはいくらでもあるが、めんどいからやめておく。
 私は十年ぶりにその駄菓子屋に行ってみることにした。店に向かう途中、私があまり利用しなかった方の駄菓子屋がすでに潰れているのを見て少し不安になる。こちらの店はあまり店のおばちゃんと客とのコミュニケーションがなかったから人気がなくなって潰れたに違いないと思うことにする。少々ドキドキしながら角を曲がると、十年経ったというのにまったく変わっていないように見える店が現れ、私はホッとした。元々子供しか訪れない店であったので、先客(小学生)がいたら変な目で見られるかもと思いつつ、扉を開ける。記憶と同じ音を立てて扉が開くと、十年前の匂いが私を出迎えた。レイアウトが微妙に違っていたが、私にはほとんど変わっていないように見えた。そして、「いらっしゃい」と声をかけてきたおばちゃんもほとんど変わっていない。お久しぶりですとか言おうと思っていたのだが、さすがにあちらは覚えていないだろうからやめにして、店内を見てまわる。奥の方にあった埃をかぶったプラモデル(ロボダッチとか)はなくなっており、ラーメンを食ったりプラモを作ったりしたテーブルもなくなっていた。もう今はここでラーメンを食っていったりはしないのだろうか。駄菓子の方はと見てみると、半分以上は新しい物に変わっていたが、粉ジュースやゴールドチョコ等昔よく食べた駄菓子が結構残っていたので少し安心した。そう言えば、当時はビックリマンチョコ、と言うよりシールが大人気でどこの店でも品薄だったのだが、今ではビックリマン2000とかいう名前で売っていた。なんとなく、昔よりおいしくないような気がした。もしかしたらドキドキ学園(要は当時のビックリマンチョコの類似品)の方がうまかっただろうか。
 そうして駄菓子を物色していると、「あんた、昔よくここに来てなかった?」とおばちゃんが話し掛けてきた。そうだと答え、当時の友人の名を数名口にすると、「ああ、よく一緒に来てたねぇ。そろばん塾に通ってた仲間だろ?」とどうやら思い出してくれたらしい。というか、よく覚えているものだと感心した。やはり買い溜めをやり始めた張本人だから覚えていてくれたのだろうと思う。あれから買い溜めをするのが流行ったのだが、買い溜めした品物をダンボールに詰めて店に置いて貰っていたために、店のスペースの都合でだんだんと買い溜めは廃れていったのである。
 おばちゃんの話によると、今でも子供はよく来るし、この店でラーメンを食うというのも続いているらしい。しかし、昔とは男女の比率が逆転しているという。逆転と言うか、昔は女の子がこの駄菓子屋に来ることなど皆無だったと思うのだが、今では7対3で女の子の方が多いのだそうだ。
「今は女の子の方が強いからねぇ」とおばちゃん。
 昔も女の子は強かったと思うが、昔よりさらに強くなったようだ。今の時代の子供なんぞはあまり駄菓子屋にはいかないのではないだろうかなどと思っていたのに、全然そんなことはなかったのである。
 話をしながらとりあえず懐かしい駄菓子をどんどん買うことにする。いつのまにやら用意されていた小さ目のカゴがいっぱいになるくらい駄菓子を詰め込んで会計をすると、値段は六百円。これだけ買っても六百円なのかと少々驚く。やはり小学生の頃と今では金銭感覚が違うようだ。いや、当たり前だが。
「昔来てた子が、自分の子供を連れて来て、今度はこいつをよろしくなんて挨拶しに来ることもあるんだよ」というおばちゃんのセリフを聞き、ああ、確実に時は流れているのだなぁと思ってしまった。
 最後に懐かしのパレードを飲む。昔はフタの裏のゴムを剥してアタリハズレを見たものだが、フタの裏には「スピードクジに変わりました」と書いてあった。今では衛生上の理由とやらで、スピードクジに変わってしまったのだそうだ。これではパレードのアタリを見極める技が使えないではないか。
「また来てね」
 おばちゃんの声を背に受けながら店を出ると、少年時代の私が友人達と楽しそうに笑いながら裏山に向かって走っていくのを感じた。もちろん、手には銀玉鉄砲を持って。


母ちゃん達には内緒だぞ

 昔、ファミコンウォーズというゲームがあって、そのゲームのCMは軍人さんたちが宣伝文句を整然と叫びながら走っているというものであった。その中で、「母ちゃん達には内緒だぞ〜」という言葉があったのであるが、以下の内容とはまったく関係ない
 現在のエロゲーではまったく見かけなくなったが、昔のエロゲーの一部には「エスケープモード」というものがあった。もちろんゲームによって呼び名は違うのだが、いざというときにダミー画面を表示させるという機能のことである。
 この機能の有用性を、千葉県在住の克敏さん(仮名)の体験を元に説明しよう。

 当時十四歳だった彼は、父親の所有するPC-88で「電脳学園3 トップをねらえ!」をプレイしていた。このゲームは脱衣クイズ物で、クイズに答えると女の子が脱いでいくという当時の彼にとってはまさに夢のようなゲームであった。 電脳学園3 トップをねらえ!

 もうちょいで全部脱ぐぜ〜ぐはは〜などと考えながらプレイしていた時、突然部屋の外で足音が。慌てる克敏さん(仮名)。
 やべえ、隠さねえと!! でも隠すってどうすんだよオイ。あわわわ、電源だ。本体……はまずい,まだセーブしてねえ! そうだ、ディスプレイの電源を落とすんだ!
 しかし、悲しいかな、そのディスプレイの電源スイッチは後ろ側にあるので彼はとっさにスイッチを切ることが出来なかったのである。無常にも電源断を待たずに開くドア。
「ねえちょっと克敏、あんたあの本………」
 そのまま固まる克敏さん(仮名)とその母親。
「か、克敏っ! アンタ何やってんの!!」
ち、違うんだよ母さん! これはそのあの……」
「何が違うってのよこのスケベ野郎!! あたしはアンタみたいな変態野郎を育てた覚えはないよ!! あんたみたいなのが将来性犯罪起こしたりすんのよ!! このヲタクの変態スケベストーカー野郎がっ!!
「ええっ!? いや、スケベはともかくストーカーじゃないと思……」
「うるせえ!! てめぇなんぞに食わせるメシはねえ!! さっさと出てけ!! 出て行けよオラァ!!
 克敏さん(仮名)はそれ以後一度も家に戻ったことも、両親と連絡を取ったこともないとのことである。

 克敏さん(仮名)はまったく知らなかったのだが、実はこのゲームにはエスケープモードが存在するのである。では、その機能を利用していたらどうなっていたかをシミュレートしてみよう。

 エロゲーのプレイ中、部屋の外で足音がする。しかし、克敏さん(仮名)は慌てることなく、ゲーム画面中のエスケープボタンを押した。
 一瞬のうちにテトリス風の画面に切り替わるディスプレイ。単一の画面のみであってまったくプレイは出来ないが、親の目を誤魔化すには十分である。そして、ドアが開いて入ってくる母親。
驚異のエスケープモード!

「ねえちょっと克敏、あんたあの本さっさと整理しちゃいなさいよ。捨てるなり売るなりしてちょうだい」
「わかってるよぉ。今度やるから」
「まったくあんたは勉強もしないでゲームばっかり……」
 ブツクサと文句を言いながら母親は去っていった。克敏さん(仮名)は見事試練にうち勝ったのである。

 と、このようにエスケープモードは非常に役に立つのである。役に立つどころか、時としてこれがあるかないかで人生が劇的に変わってしまうことすらあるのだ。克敏さん(仮名)もエスケープモードの存在を知ってさえいれば……

 エスケープモードは、今ではゲームのウィンドウを隠してしまえばそれまでなのでまったくもって必要のない機能である(実はWin用でも存在するものがあるらしい)。OSがシングルタスクであったが故の機能であったのだ。現在では自分の部屋にPCがあるのも珍しくないのだが、昔は自分の部屋にPCがあるという(つまり、何も言わずに人が入ってくる場所でプレイしなくてもよい)環境の人はかなり少なかったのだ。だからこそ、エロゲーをやっている最中には絶えず警戒する必要があったし、そのためにエスケープモードも生まれたのだろう。
 一つ断っておくが、俺はこの機能を活用したことはない。別に隠れてコソコソやらなければいけないような環境ではなかったからだ。いや、嘘じゃないって。


お電波な人は本当にただの狂人か?

 世の中にはお電波な人がいる。彼らは、「ラジオで俺に狂えと言うのはやめろやめろヤメロヤメロ」とか、「神からの指令電波がおまえを殺せと緑の小人をぐるぐる回す俺を憎まないでください」などと、何か変な電波でも受信しているかのような言動をするという。一般的にはキチガイと認知される彼らだが、はたして本当にそうなのだろうか。
 NTTにいたというある先生の話だが、たまにNTTに苦情を言いに来る人がいるのだという。「強い電波が私の体を突きぬけてうるさくて仕方がない。何とかしてくれ」と。丁寧に対応しながらも、やはり当時の先生は「うわぁ、危ない人だ」と思ったらしい。ところがある時、仕事の先輩が「口の中でラジオの音が聞こえる」と言い出したのだという。やべえ、先輩まで!? とも思ったが、よく調べて見ると虫歯の治療の際に詰めた物が微弱ながらも受信器として働くことがわかったという。
 実証はされていないが、人類の中には電波の受信感度の高い人がいるのではないだろうか。ラジオの音が体に、いや脳に直接聞こえるように感じられる。人に話しても気味悪がられ、止むことのない囁きにいつしかその精神は病んで行くのではないだろうか。


金沢に行こう!

 石川県に来てから二週間が経過した。私はふと、未だに金沢に行ったことがないことに気がついた。石川と言えば金沢、金沢と言えば石川! というぐらいに有名である金沢にである。とはいえ、特に用事もないし、私は仙台の街(まあ東北では大きな街であろう)に出ただけで気分が悪くなるほどの人込み嫌いである。しばらく考えたが、まあ一度くらい行っておいてもいいだろうと思い、私は土曜の昼にアパートを出た。
 車で行くつもりはなかった。あまり車は好きではないし、大体、街中に車で行ったら駐車場代がかかってしまう。そこでバス停に行ってみると、最寄りの駅までのバスが日に三本。一時間に三本ではない。一日に三本である。仕方なく私は車でJAIST(北陸先端科学技術大学院大学)まで行き、そこからジャイバス(JAISTの無料運行バス。最寄りの駅まで一時間に一本出ている)に乗って鶴来駅に向かった。私は鶴来もあまり眺めたことがなかったので、鶴来駅の少し手前でバスを降りた。少々さびれた感じの商店街の中に、デカイ店があった。デカイといっても、デパートというには少々小さいくらいである。車のない寮生はここに買い物に来ているのだろう、一緒にバスに乗ってきた学生が店に入っていった。私は適当に辺りを眺めつつ鶴来駅までてくてくと歩いた。
 北陸鉄道石川線とかいうらしいが、とにかく鶴来駅で電車に乗り込む。しかし、その電車の揺れること揺れること。仙山線(仙台〜山形線)なんか目じゃねえといった感じ。揺れるわ跳ねるわちゃんと線路を走ってるのか不安になるほどである。さらに、学校帰りの中学生がわんさか乗っており、すでに征服完了といった具合である。私の目の前にはブレザーの上着を脱ぎ、Yシャツの前をはだけた如何にもといった風体の中学生らが座っており、やれ誰々が生意気だの、タイマンの邪魔をされて云々だのといった会話をしていた。こういう輩はどこにでもいるものだなあと妙に感心してしまった。
 電車は文字通りガッタンゴットンと進み、約二十分程で新西金沢駅に到着した。
 新西金沢駅に着くと私はJRの西金沢駅に向かった。そこから一駅で金沢である。私が切符を買ってホームに向かうと、そこは大変なことになっていた。高校生らしい様々な制服がホームを埋め尽くしており、あまつさえホームに降りる階段も降りられないほどであった。ここはいつもこんな状態なのだろうか。いや、私が土曜の昼などという時間に来てしまったのがいけないのだろう。階段に腰掛けてデカイ声で笑いあう高校生を前にどうしたものかと考えたが、無理に下に降りたところでしょうがないと思い、私は階段の上で電車が来るのを待った。
 しかし予定の時刻を過ぎても電車は来ない。十分過ぎ、二十分が過ぎても電車が来る気配はない。駅側からのアナウンスもなく、これぐらい遅れるのはここでは当然なんだろうかと思ったが、周りの人の話しを聞くとどうもそうではないらしい。人身事故がどうだとか、線(電線のことか?)が切れたらしいとかいろいろな意見が飛び交っていたので、直接駅員に尋ねに行こうと思ったとき、改札側から来た高校生が、
「故障らしいよ。なんか二、三時間くらい遅れるかもしれないってさ」
と言っているのが聞こえた。
 何てことだ。そんな日にわざわざ電車に乗りに来るとは私もまた運の悪い男だ。電車を待とうとする者、家に電話して車で迎えに来てもらう者などをぼ〜っと眺めていると、「バスで行こう」と言う者がいた。バス!! そうだ、その手があるのだ。いや、待て! ここでバスに乗ったら負けではないのか? 意地でも電車が来るまで待つことこそが男の道ではないのか!?
 結局私は大分見通しのよくなったホームを眺めながら、階段に腰掛けて電車が来るのを待つことにした。読みかけの小説を持ってこなかったことを少し悔しく思ったり、やたらと大声で話す女子高生にいらついたり、髪を染めた学生がいないのはこの辺の学校は校則が厳しいんだろうかなどと考えたりしているうちに時間は過ぎていった。
 待ち始めてから一時間程経ったころ、いきなりカンカンカンと踏み切りの警告音そっくりの音がなり響き、ホームに残っていた高校生らが喚き出した。電車が来る合図らしい。やれやれ、ようやく来たかと腰を上げようとすると、ピーっという高い音と共に電車はスピードを落とさずにそのまま通り過ぎて行った。特急だったらしい。高校生らはへなへなと座り込み、私はため息をついた。その後も特急が何度も通り過ぎ、ある電車は駅で止まったにもかかわらず、特急であるためにその扉は開かずに、高校生は乗せてくれ〜と喚く始末。特急は来るくせに何故に普通電車は来ないのか?
 待ち始めて二時間、ようやく普通電車が到着した。ただし、逆方向の。乗客はすし詰め状態になっており、ホームにいた高校生らが全員乗り込めるはずもなく、乗務員の「すぐ次が来るから」というセリフに騙されて乗り込もうとしていたうちの半数ほどはホームに残された。それから三十分、特急が二台程通り過ぎただけで電車は来なかった。私はトイレに行きたくなり、なあに、五分程なら大丈夫さと軽い気持ちでトイレに向かった。しかし、その間に電車は来ていたのだ。私がトイレから出ると、電車は走り去ってしまった後だった。私は落胆のあまりそのまま帰ってしまおうかと思ったが、ここで帰ったら負けだと思いなおし、とりあえず駅の前で一服することにした。駅の構内は終日禁煙なのである。私が一服をしていると、電車の入ってくる音がする。喫煙所からはホームの様子はまったくわからない。
(ようやく逆側の二本目が来たな。すぐ来るなんてホラ吹きやがってまったくよお)
 などと呑気に煙草を吹かしていると、もう一台の電車が入ってくる音が聞こえた。おっ、ようやくきやがったか。私は慌ててホームに向かったが、そこには逆方向の電車がとまっているだけだった。そして金沢方向に向かって走って行く電車の後ろ姿が
 なにぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいい!!
 どうやら最初に逆方向だと思っていた電車こそが金沢方面の電車であったらしい。
 ガタンゴトンガタンゴトン。
 電車の走り去った後のホームには、私だけがポツンと残されていた
 それから待つこと十分、私は増えてきた乗客と共に金沢行きの電車に乗り込んだ。電車はゴトゴトと静かに進み(さすがJRは一味違うぜ)、遠くにビルが見えてきた。ようやく金沢に辿り着いたと思っていると、電車はスピードを緩め、止まってしまった。
「停止信号です。しばらくお待ち下さい」
 ああ、もういいよ。待つよ、待ちますよ。
 で、十分後。
「現在、電車が混雑しているために駅に入れません。もうしばらくお待ち下さい」
 結局、そこでもかなりの時間を待たされた。待っている間に窓の外を見てみると、やけに古臭い家が多い。そう言えば、アパートの大家さんが、戦争の時に戦火を受けなかったから古い建物が多く残っているのだと言っていた。そんなことを考えているうちに電車は動き出し、ようやく金沢に辿り着いた。
 本来ならば一時間もかからずに金沢に着くところを、十二時にアパートを出て金沢着が五時である。金沢駅の改札前には電車が遅れた影響かごちゃごちゃと人がおり、それを見ただけで私は気分が悪くなってしまった。もう辺りをうろつく気にもならず、駅に隣接した店をいくつか覗いただけで私は帰ることに決めた。改札に行くと、ちょうど四時半過ぎの電車が今(六時ごろ)来るというのでそれに乗りこんだ。
 JRから北陸鉄道に乗り換えの際、時間があったので駅そばを食う。細かいお金がなかったので五千円札を出したら、釣りがないと言われてしまった。何だかもう気にもならず、そばを食い、売店で札をくずしてもらって代金を払った。
 行きと同じに二十分電車に揺られ、鶴来駅に到着。ジャイバスが来ていたので向かおうとすると、突如奇声があがり、壁を蹴りつける音がした。何事かとそちらを見ると、髪を金色(というか黄色)に染めた男が数人の仲間と自販機のわきに座り込んでいた。そうか、近くにコンビニないもんな。駅の自販機のわきに座り込むしかないんだろうなあとなんとなく可哀相になってしまった。

 アパートに帰ってから、こんなにも無駄に過ごした一日が過去にあっただろうかなどと考えてしまった。とりあえず、用もなく金沢に行くのはやめようと思った。


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