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小説 - [屋上]

 午前中の事務仕事に疲れ果てた若い会社員は、食欲がなかったこともあって、昼になると屋上へと足を向けた。屋上で景色を眺めていれば気分も晴れるかもしれない。廊下に出て、人気のない階段をゆっくりと登る。なるたけ足音を立てたくなかったのだが、異常に静かなためにやけに自分の足音が大きく聞こえた。時間をかけて階段を登り、屋上への扉に手をかけると、その扉は錆付いていた。確か昨日は錆びていなかったはずだ。しかし、今はこの扉を開けることが重要だと考え、扉に手をかけた。扉は見た目よりも静かに開き、妙に生温い風を感じた。屋上には普段誰もいないのだが、今日は先客がいた。中年の男が、屋上の周りを囲む柵を乗り越えて、柵の向こう側に立っていた。会社員は中年男の邪魔をしないように、少し離れた場所で柵に寄り掛かって景色を眺めた。周りには砂漠が広がっている。なるほど、この時期にしては妙に生温い風だと思ったけれども、この砂漠のせいか、と会社員は納得した。地平線の向こうにオアシスのような物が見えたが、蜃気楼かもしれなかった。
「おい、君」
 急に声を掛けられて会社員は気分を悪くした。自分は誰にも邪魔されずに景色を眺めたいだけなのにどうして声を掛けてくるのか。会社員は自分に声を掛けた中年男を睨むように見て、「なんですか」と言った。
「私はここから飛び降りようと思うんだが、君はどう思うかね?」
 会社員はムッとした表情のまま、柵から少し身を乗り出して下を見た。下までの距離は大分あるようだ。砂に埋もれてしまった道路を歩く通行人が蟻のように見えて、少し可笑しかった。
「これぐらいの高さがあれば大丈夫じゃないですか」
「……本当にそう思うかね?」
 中年男は表情を全く変えずにそう言った。この中年男は何が不満なのだろう。もっと高いところから飛び降りればいいじゃないかと会社員は思ったが、ここよりも高いところはいつのまにか無くなってしまったのだ。もしかすると、ここだって他の所から見たら砂漠に見えるのかもしれない。
「経験がないので分かりませんが、多分大丈夫だと思いますけど」
 会社員がそう言うと、中年男はしばらく考えてから言った。
「飛び降りても死なないかも、とは思わないかね?」
「死が現実の事のように感じられない、ということですか?」
「いや、飛び降りたら背中から羽が生えて飛べそうな気がするんだよ」
 そんな話は会社員は聞いた事がなかった。だが、この世にはまだ自分の知らない事も数多くあるのだから、もしかするとそんなこともあるのかもしれないと思った。会社員が中年男にそう言うと、中年男は、「だから試してみようと思うのだ」と答えた。
「さすがになかなか踏ん切りがつかなくてねぇ」
「よかったら手伝いましょうか?」
「いや、やはり自分でやる事に意味があると思うんだよ」
と、照れたように中年男は笑った。自分の時間を邪魔された事をまだ怒っていたせいか、会社員は、何だか嫌な笑顔だなと思った。
「下に落ちたら通行人の邪魔になりますよ」
 先程下を見た時の、蟻のような通行人達を思い出して会社員は言った。
「大丈夫だよ。よく見てみたまえ」
 そう言われて会社員はまた下を見た。かなりの距離がある筈なのに、何故か通行人の姿が見て取れた。会社員が通行人だと思ったのは、木製の人形だったのだ。鼻だけがついたのっぺりとした顔の人形が歩っている姿は、砂漠に相応しいと感じられた。
「じゃあ心配ないですね。それじゃ」
 会社員は軽く手を挙げて扉に向かって歩き出した。中年男も手を挙げたようだったが、会社員はよく見ていなかった。開けっ放しの扉をくぐり、階段を一段一段ゆっくりと降りて行く。途中の階にはいったい何があるのだろうかと少し気になったが、自分の人生には大して関係ないだろうと会社員は思った。自分の仕事場のある階に向かって、掃除がされているはずなのに妙に汚れている階段を降りていると、今度はさっきの中年男の事が気になってきた。あの中年男は自分の叔父ではなかっただろうか。一度気になり始めると、なんだか間違いなく叔父だったような気がしてならなかった。会社員は振り返ると、ため息をついてから階段を登り始めた。放っておいたら、後で父に文句を言われるかもしれない。会社員はまたしてもゆっくりと階段を登って行った。
 屋上にたどり着いた時には、もうすでに中年男の姿はなかった。遅かったのだ。中年男は屋上から飛び降りて、人形を下敷きにして息絶えたに違いない。会社員が、父に何と伝えるべきかと考えていると、鳥の鳴き声が聞こえた。空を見上げると、太陽と重なるように一匹の黒い鳥が舞っている。会社員には中年男が鳥になったように思えて、なんだか嬉しくなった。だが、鳥の声が少しおかしいのに気がついた。妙に単調と言うか、不自然な感じがした。黒い鳥をよく見ると、それはからくりで出来た鳥だった。会社員は可笑しくなって笑った。笑いが止まらなくなって、会社員は床に座りこんで腹が痛くなるまで笑った。しばらくして笑いが収まると、会社員は服の汚れを払って立ち上がった。空にはまだからくりの鳥が飛んでいる。その時、遥か下の方から笑い声が聞こえてきた。あの木の人形どもが笑っているのだ。口もないくせに自分を笑っている。自分を侮辱する奴は許せない。会社員は黒いからくり鳥の声を背に、階段を駆け降りていった。


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