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小説 - [扉]

 すぐ近くで大きな音がして、少年は一瞬身を竦ませた。何事かとそちらを見ると、木の部分が割れて、金属パイプの足がひしゃげた椅子が、無残な姿をさらしていた。上から落ちてきたのだと思い当たって上を見上げたが、校舎の屋上に人影は見えず、緑色のフェンスが見えるだけだった。まさかひとりでに椅子が落ちてきたりはしないだろうから、椅子を落とした人間は屋上にいるはず。上に上がっていって文句を言うべきだろうか。大体、屋上から椅子を落とすなどと、一体全体何を考えているのか。人に当たる事を考えてもいないのか、それとも当たっても構わないと思っているのだろうか。
 しばらく考えた末、少年は屋上に上がるのを断念した。この学校に不良の様な人がいるかどうかは知らないが、屋上から机を投げ落とす様な人間と関わり合いにはなりたくない。少年がもう一度椅子を見ると、不思議とさっきとは位置が微妙に違うような気がした。無残にひしゃげた椅子を見ているうちに、何故か無性に腹が立ってきた。少年は椅子に近づいて、思い切り蹴りつけた。椅子は吹き飛びもせず、少年の蹴りを受け止めた。少年は何度も何度も蹴りつけたが、怒りは収まらなかった。椅子を蹴った時の感触が気に入らない。椅子を屋上から落とした人物に文句を言わなければこの怒りは収まらない、と少年は思った。
 少年は込み上げる怒りに突き動かされ、校舎に駆け込み、階段を駆け登った。何人かとすれ違い、そのうちの何人かは走るなとか何とか言った様だったが、少年の耳には入らなかった。二階、三階、四階と駆け上り、屋上への扉の前に来ると、少年は扉の取っ手に手をかけた。だが、扉を開けようと力を込めても何故か扉は開かなかった。鍵が掛かっているのかと一瞬思ったが、数年前に壊された錠はやはり壊れたままで、扉が開かない理由がわからなかった。どうしても開かない扉と格闘するうちに、少年は、どうして自分がこんなことをしているのか不思議に思い、あれほど自分を突き動かしていた怒りが収まってしまっているのに少し驚いた。
 扉を開けるのを諦めて、階段をゆっくりと降りて行く。登ってきた時と同じ階段のはずなのだが、少年にはぐるぐると回る螺旋階段を降りているように感じられた。階段を登っていた時とは違い、今度は誰にも出会わずに一階までたどり着いた。教室に鞄を取りに行こうと思ったが、何やら外の方が騒がしいのに気づき、少年は外に出た。人だかりが出来ている。どうしたのかと人垣の隙間から覗くと、人だかりの中心には先程落ちてきた椅子があった。みんなはひしゃげた椅子を、何か気味の悪い物でも見るかの様に眺めているのだ。どうしてみんなこんな物に集まっているのだろう。周りの人たちに聞いてみたかったが、満足な答えが得られるとも思えずに、少年は人だかりから離れようと思った。
 その時、誰かが大きな声を上げた。屋上を指差して何やら叫んでいる。少年もつられて上を見上げると、屋上にスカートがはためいていた。スカートの中の白い陶器のような脚が、少年に人形を連想させた。人形の様な脚を持つ、片想いの少女をも。ああ、あの子はあの扉を抜けて屋上に上がったのだ。どうして自分には開ける事の出来なかった扉を開ける事が出来たのか、それを聞き出さなければならない。
 少年は屋上のスカートを眺める群集を背に、再度校舎に駆け込んだ。階段に足をかけたところで、通りすがった教師が、危ないから廊下を走ってはいけないと少年を注意した。少年はもっともだと思い、教師に謝ってから階段を歩いて登り始めた。自分では一歩一歩しっかりと踏みしめているつもりなのに、ふわふわとした物の上を歩いているかの様な、奇妙な感じがした。慌てず、急がずに少年は階段を登る。すれ違うみんなが自分を応援しているように思える。一歩、また一歩。確実に屋上に近づいて行く。屋上には風にはためくスカートと、白い陶器の様な脚が待っている。そう考えると少年は、何故か自分の心臓が早鐘のように脈打つのを感じた。屋上への扉が見えた。あれだ。あれを開ければ自分は……。少年は、錠の壊れた、開かない扉にゆっくりと手を伸ばし、扉の向こうに吹くであろう爽やかな風を想像しながら取っ手を握った。取っ手は軋む音を立てつつ、ゆっくりと、確実に回っていった。


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