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小説 - [懺悔]

1.

「神父様、私は罪を犯しました」
「全てお話しなさい。あなたに罪を償う気持ちがあるのなら神はお許しになることでしょう」
 いつもと同じ言葉。神が許したからどうだというのか。神が許さなければどうなるのか教えて欲しいものだ。天から雷でも降ってくるのか。一応我々は、神に背く者は地獄に堕ちると教えてはいる。しかし、私は地獄を見た事はないし、死ななければ地獄に行く事も出来ないのだから確かめ様もない。
「神はいつもあなたを見ています。二度と同じ過ちを繰り返さぬように節度ある態度を心掛けなさい」
 告白を聞き終えた後、そう言って締めくくる。懺悔には大した意味はない。口では神に許しを請うてはいるが、実際には人々は心の負担を少しでも軽くするために懺悔をするだけで、神などどうでも良いのではないか。見た事もない神をどうして盲目的に信ずる事が出来ようか。
 私も昔は理想に燃えていた。偉大なる神の御心でもって人々を救えると思い上がっていた。だが、教会では本物の神など必要としてはいなかった。教会は支配者であったのだ。神は名前だけ存在すれば良いものであった。現実に存在したならばほとんどの聖職者は神の怒りに触れて地獄に堕ちていることだろう。大陸に渡って中央教会で学んだ事は、歪められた教義ばかりだった。高位神父などと名をつけて、神の定めた人間の平等を都合のいいように捻じ曲げ、彼ら高位神父は私腹を肥やす事に夢中だった。聖騎士団という最強の軍隊を抱えた教会に逆らえる者はいなかった。高位神父達は尼僧と密通し、目をつけた街娘や気に入らない者は魔女狩りだ。魔女狩りで捕らえた者には執拗に拷問を繰り返し、そのほとんどはもう二度と外に出ることはない。しかし運が良ければ教会を出る事も不可能ではない。普通は最終的に火炙りにされるが、火炙りにされる前に死んでしまった者だけが家に帰れるのだ。死体となって。
 神はいなかったのだ。少なくとも中央教会には。
 随分と悩んだが、結局私は正式な神父となり、生まれ育った村に帰って来た。大陸で自分を貫く勇気はさすがになかった。高位神父の在り方に反対する者はたとえ神父であっても狩られる危険があったのだ。私一人でもこの辺境の地で教えを説いていこうと思った。神がいないとしても、その教えは人々の生きる規範となり得るのだから。しかし、昔程の情熱はもうなかった。

 懺悔に来た男は、姦淫の罪を告白しに来たようだ。もう何度目になるのかわからない。この男には子供はいないが貞淑な妻が居り、女遊びをする理由が私にはわからない。まったく理解出来ない。男の言い分はいつも微妙に違ってはいたが、結局は「抱きたいから抱いた」という動物的な理由に要約される。子供でもいれば違ったのだろうか? だが、この男の妻は子供が出来ない体らしいという事がわかる前から、この男はこうだったということを思い出した。
「……神はいつもあなたを見ています。二度と同じ過ちを繰り返さぬように節度ある態度を心掛けなさい」
「はい」
 そう答えた男の声が笑っている気がする。今と全く同じやり取りをもう何度繰り返した事だろうか。たまには違う事を言ってみろ、と言葉ではなしに言われている気がする。恐らくは私の気のせいなのだろう。確かにこの男は自分の抑えがあまり効かない人間だが、それを何とかしたいとこの男なりに考えてはいるのだろうから。そうでなければわざわざ好き好んで教会などには足を運ぶまい。
 男が帰った後、数人が懺悔に訪れたが、邪な気持ちを抱いてしまったとか、人の陰口を叩いてしまったとかいう大して罪のない、そして村人が敬虔な信者であることを示すような告白であった。自分の教えが理解されているのは嬉しい限りだ。しかし、そこまで徹底して罪の意識を持たなくていいとも思うのだ。まさか自分からそうも言えまいが。神を信じていない私の心は、いつも矛盾に満ち満ちている。
 私は教会の掃除を簡単に済ませ、一息ついた。どうせ、村人が祈りに来る日以外は大して汚れはしないのだ。ふと気がつくと、教会の中が赤い。髭の似合わない役者の演じる男が、決闘の後に「血のような夕日だ」などと言う演劇を見た事があるが、やはり夕日を血のようなと表現するのは無理があると思った。赤と言うより橙色に近いか、いや、それよりも……、などと愚にもつかないことを考えながら、教会の十字架が赤い光を反射しているのをぼんやりと眺めていた。私はそれからしばらく教会のシンボルたる十字架を見つめていた。十字より上の方が長いので、剣のように見える。千数百年前に死んだ教祖がこの十字架を拝めと言ったのは、争いを捨てられない人類に対する皮肉だったのかもしれない。聖書をよく読むと、教祖が非常に頭の良い人物であり、心から平和を望んでいたことがよくわかる。現在の教会が教祖の考えた通りの存在であったなら、どんなにすばらしいことだろう。もう十数年まともに祈ったこともない神はどうでもよかったが、教祖になら祈ってもいいと思った。平和について祈るのか、人々の心の平安を祈るのか、それとも理想の教会の復興を祈るのか。何について祈るのかを決め兼ねていうちに、夕日が沈んでしまった。私はカンテラに灯を点し、自室に引き上げた。結局、祈りは捧げなかった。

2.

 私は聖書に書かれている、預言者とされる我らが教祖の語った言葉を読み上げていた。
「……ある農場主が、自分の農場を労働者達にまかせて旅に出た。ある時、農場主は農場に使いを出した。その使いは労働者達に殴られて逃げ帰ってきた。次に遣わした者は前の者よりも酷く殴られていた。それで農場主は、今度は自分の息子を遣わした。自分の息子ならば労働者達も丁重に扱うだろうと考えたのだ。農場主の息子は農場に着くと、『何故に使いを追い返すのか』と尋ねた。労働者達は何も言わずに農場主の息子を打ち殺した。農場主は悲しみ、農場に来て言った。『お前達は何故私の息子を殺したのか』。労働者の中の一番痩せた男が答えた。『我々の農場に勝手に入ったからだ』」
 私はここで言葉を切り、村人の反応を見た。教会内の三十人程の村人の中には眠たそうな顔をしている者もいたが、ほとんどの村人が今の話の意味を掴もうとしているようだ。この手の説教は、正直、何とでも解釈が出来る。正解があるわけではないのだから、皆にはよく考え、自由に意味を取ってもらいたい。教祖が喩を多く用いたのは、我々に考えるということを学んで欲しかったからなのだと思うのだ。
 いくつかの説教を終え、最後に皆で神に祈りを捧げる。私の祈りは形だけで心が込っていない。祈りとは形が重要なのではなく、そこに込められた心が大事なのだ。村人にはそう教えているが、私は実行していない。神父としては最低だ。私が解散を告げると、村人達は私に礼をし、仲間内で雑談をしつつ教会を出て行った。皆が教会を出てく中、最後まで長椅子に座っていた婦人が静かに立ちあがり、私に話し掛けてきた。
「あの……神父様」
「はい、どうしました?」
 彼女は浮気性の男の妻だ。おそらくそのことで相談に乗って欲しいのだろう。もしかすると、彼女は私が神父でなくても相談してきたかもしれない。いや、私が神父になっていなければ、大陸に渡らなければ、そのようなことを他人に相談する必要もなかったのだろうか。彼女は俯いて、どう話を切り出すか迷っているように見える。話し声が教会の入口から離れて行った。もう教会には私達二人しか残っていない。
「……あの……」
「はい」
「こ、この教会には教祖様の像がありませんのね」
 今思いついたように早口でそう言った。彼女はあまり人に相談をするという行為を好まず、結局自分の胸にしまってしまう。昔からそういう性格だった。
「おや、他の教会をご存知ですか?」
 私はとりあえずそう言った。
「いえ、あの、隣の家の方から伺いました。いくつかの教会を見た事があるそうですけれども、教祖様の像のない教会なんて初めて見たっておっしゃってました」
「そういえば最近越してらしたんでしたね」
「ええ、御主人が元々こちらの地方の方だったとか」
「そうですか……」
 私は彼女に背を向けて、正面の壁に飾られた十字架を見つめた。自分から切り出して彼女の相談に乗るべきだろうか。悩みを聞いて、いくつかの助言をするのも神父の務めだ。懺悔の内容を人に話す事は出来ないが、彼女の夫の懺悔を聞くまでもなく、彼女の夫の素行不良は村の者なら大抵は知っている。だから私から話しても問題はない。だが無遠慮に、「あなたの悩みは知っている。だから私に相談しなさい」などと言えよう筈もない。やはり、彼女が言い出すまで待つべきだろうか。
「……聖書には」
 結局言い出せずに、私は先程の質問に答える事で自分の思考を打ち切った。
「聖書にはこう書いてあります。『私を拝むのは止めなさい。私は預言者であって神ではないのだから。あなたがたが形の在る物に祈りたいと言うのならば、天に伸びる十字架を拝みなさい。その祈りは十字架を通じて天に届くやもしれないから』。教祖様は、御自分の像を拝むようになると神の存在が希薄になり、祈りが単に儀礼的なものになってしまうことを恐れたのだと思います。聖書というのは教祖様本人が書かれた物ではないので、私は十字架を拝む事ですら教祖様は望んでおられなかったと考えていますが、村人に教えを広めるには形のある何かが必要だったのです」
 祈りが儀礼的になっているのは他でもない、私だ。
「そうだったんですか。知りませんでした」
「知らなくても当然です。この偶像崇拝を戒める部分を読んで聞かせる神父は普通いませんから」
 その後しばらく、世間話じみたことを話したが、彼女は夫のことを言い出さなかった。「そろそろ失礼します」と言った彼女に、私は「神の御加護があらんことを」などともっともらしい事を言ってみせた。

 雨が降っていた。先程までは小雨だったのだが、急に土砂降りになった。家に向かっていた大工の男は、ちょうど通りがかったこの教会に飛び込んできた。私は教会の長椅子を揃える手を止めて、奥の部屋から厚手の手拭いを取ってきて大工に手渡した。
「すいませんねぇ、神父さん」
「いいんですよ」
 大工は手拭いで顔を拭う。土砂降りになってから大して経っていないのに、大工はびしょ濡れだった。教会の屋根に当たる雨の音が凄まじい。体の周りを雨音が覆っているようだ。大した距離はないのに、大工の声が聞き取りにくい。
「神父さんは結婚しねぇんですかい?」
「なんです、急に」
「いやあ、別に大した意味はないんですがね。神父さんだって一人じゃなにかと大変でしょうが」
 私は大工に微笑んで見せた。
「私は聖職者ですから」
「へ? でも街の神父さんにはそりゃあ綺麗な奥さんがいましたぜ?」
 大工の男は少し不思議そうな顔をした。神に仕え、人々に教え諭す者は本来全てを捨てなければならない。それは家族であり、財産であり、家である。さすがに教会を出るわけにもいくまいが、少なくとも家族を持つ者が聖職者を名乗る事が私には不思議でならない。だが、中央教会は神父の結婚を認めているのだ。中央とは違い、地方には人格者の神父も数多く存在すると聞くが、大抵は彼らも家族を持っているらしい。そしてその神父の子もまた聖職者を目指すのだという。それはそれで、素晴らしいことではあるが……。
「聖職者は家庭を持たぬもの。他の聖職者がどうであれ、私はそう思っているのですよ」
「はぁ、俺にはよくわかりませんや。学のある人は面倒臭くていけねぇ」
「違いないですね」
 そう言って笑った時、雨の音が広がった。教会の扉が開いたためだ。そこには濡れ鼠になった例の婦人が立っていた。ずっと走ってきたのか、肩が大きく上下し、雨に打たれた体は小刻みに震えている。私は大工に奥の部屋から手拭いを取ってくるように指示すると、彼女に駆け寄った。
「どうしたんですか? この雨の中を雨具もつけずに走って来るなんて、風邪でも引いたらことですよ」
 我ながらのんびりし過ぎた口調だと思いながら声を掛けたが、彼女にはまったく聞こえていないようだった。まるで支えを失ったかのように床に座り込み、ぶつぶつと何やら呟いている。
「主人が……隣の御主人が頭から血を……」
「え?」
「血が溢れて……止まらなくて……それで……」
「なんですって!?」
「頭が割れて血が……」
「しっかりして下さい! 隣の御主人がどうかされたんですか?」
 彼女の肩を強く揺さ振る。首が力なくガクガクと揺れる。彼女の瞳には生気が感じられなかった。なにか強いショックを受けたのだろう。
「神父さん、取ってきやした」
「ほら、これで体を拭きなさい」
 大工が持ってきた厚手の手拭いを彼女に渡す。しかし、彼女はその手に握らされた手拭いを見もしなかったので、私は手拭いを彼女の頭から被せた。大工に雨の吹き込む扉を閉めさせて、私は彼女への呼びかけを続けた。
「奥さん、何があったんです?」
 何度目かの呼びかけで、彼女はゆっくりと口を開いた。
「隣の……隣の御主人が頭を割られて……血が……床一面に……」
「何てこった!」
 大工が喚く。床一面の血と言うのが本当なら、それだけの出血だ、恐らく生きてはいまい。しかし問題は、頭を割られて、と彼女が言った事だ。
「事故ではなく誰かにやられたんですか?」
「神父さん、雨具を貸してくだせぇ。俺が行って見てきやすぜ。その方がよさそうだ。奥さんを頼んます」
 大工は私の返事も聞かずに、奥の部屋から雨具を取ってくると、それを羽織って教会から雨の中へと出て行った。慌ただしい人だ。私は彼を見送ると、とにかく落ち着かせようと婦人を立たせて長椅子に座らせた。彼女は依然として顔や髪を拭おうともしない。水浸しになった服のせいで、木製の椅子の色が、彼女の周りだけ濃くなっていく。手拭いがまるで賢者の被るフードのように見え、私は何故か彼女が預言者か何かのように見えた。そして彼女はポツリと言った。

「夫が……殺したんです」

3.

 私は小瓶に入った丸薬を皆に示して言った。
「悪魔の実、という薬です。この薬を服用すると、理性が薄れて行動や言動が粗暴になります。そして、様々な幻覚が見え始め、薬の効果が消えると異常な疲労感に襲われます」
 この薬は中央の高位神父の間でも敬遠されていたものだ。常習性が強く、肉体・精神共にボロボロになり、最後には破滅だけが待っている。浮気性の男は、隣の家の主人からこの薬を買っていたのだが、これ以上はと渋る隣の主人を殺して薬を奪ったのだという。私が中央にいた頃も何度か似た様な事件があった。その時には薬を売った者も服用した者も極刑に処されていた。
「神父様が今言ったことが確かなら、その薬のせいで罪を犯した事になる。しかし、人を一人殺しているわけでもあるし……」
 村長はそこまで言って私の方を見た。この村では殺人どころか、窃盗の類ですら滅多に起こることではない。判断に困るのは当然だ。集まった男達も困惑した表情をしている。浮気性の男とて、普通なら人殺しをするような人間ではない。
「悪魔の実に関して起こった事件では、悪魔の実を売った人間の方が罪が重いとされます。今回は、その売った人間はすでに亡くなっていますし、何らかの重労働を課すということではどうでしょうか」
「そうですか……。みんな、どうだろう。わしは神父様の意見に賛成なんだが」
 男達が何やら話し合っている。話し合ったところで結論は変わるまい。首を刎ねたり、どこかに閉じ込めたところで誰が得するわけでもない。最悪、村を追放と言うこともあり得るが、私のした「悪魔の実」の話によって、その可能性は低くなっただろう。同じような意見を繰り返す男達の声を聞きながら、私は浮気性の男の妻のことを考えていた。
「よし、では中毒症の治療が終わり次第、強制労働をさせる事にする」
 村長が宣言し、男達が頷く。どうやら決まったようだ。男達に続いて部屋を出る。隣の部屋には殺された男の妻が控えていた。村長に男の処分を聞くと、婦人は無表情に頷いた。夫を殺されて半狂乱になっているかと思ったのだが、婦人は妙に落ちついていた。ショックが大きすぎたのだろうか。私は婦人に近づいて言った。
「奥さん、もしつらければ教会にいらして下さい。私に出来る限り力になります」
 婦人は小さく、有り難うございますと言って、私達に背を向けた。雨でぐちゃぐちゃになった道を歩く婦人の後ろ姿は、ひどく頼りなく見えた。村長に挨拶をして、私は教会に足を向けた。一歩ごとに黒いローブに泥が跳ね、私の気分を滅入らせる。教会までの道のりが、やけに遠く感じた。

 扉を叩く音は小さくなり、扉の奥からは男のうめく声が聞こえていた。中毒症の治療は、患者をしばらくの間閉じ込めておく以外にない。悪魔の実を欲して暴れるからだ。私は心配そうに扉を見つめる男の妻に呼びかけて、男の声が聞こえない部屋まで移動した。そして、私達は向かい合う形で椅子に腰を下ろした。私は深いため息をついた。何故悪魔の実などに手を出したのだろう。いや、考えるまでもない。その恐ろしさを知らない者にとっては素晴らしい薬に思えるに違いないのだから。今度の集会では村の皆にこの薬の恐ろしさを伝えねばならないだろう。こんな事はもう二度とあってはならない。
「……また、様子を見にきます。元気を出して下さい」
 そう言って立ち上がると彼女も立ち上がった。なにやら怒ったような顔をしている。どうしました、と尋ねようと思った時、彼女は私の胸に飛び込んできた。私は少し戸惑ったが、そっと彼女の体を抱きしめた。こうやって彼女を抱擁し、彼女の温もりを感じるのは何年ぶりか。彼女は何も言わず、私も何も言わなかった。私が落ち着かせようと背中を軽く叩くと、彼女は堰を切ったように泣き出した。そうか、さっきの表情は泣き出したいのを我慢していたのだ。私は彼女が泣き止むまでこのままでいることにした。
「奥さん、落ち着きましたか?」
 しばらくして、彼女が落ち着いてきた頃、私は声を掛けた。彼女は私の胸の中で答えた。
「昔みたいに、名前で呼んではくれないのね」
 私は何も言えなかった。そうだ、私が村を出る前に彼女と約束したように、彼女と結婚していればよかったのだ。もしかすると、それは自惚れかもしれない。私が彼女を今より幸せに出来たかどうかなど、誰にもわかりはしないのだ。それでも私は後悔する。何も彼女との婚約を破棄することはなかった。教会にこだわる必要など何もない。くだらない事で意地になって、私は大切な物を失ったのではないのか。私は大馬鹿者だ。思考がぐるぐると頭の中を巡り、私はなんとか絞り出すように、
「すまない」
と、一言だけ言った。その時、奥の部屋からドンドンと激しく扉を叩く音がした。ビクッとして、私達は互いの体を引き離した。小康状態だった男が再び暴れ始めたのだ。私は不安そうな彼女に、どんなに男が苦しそうにしても、決して一人では扉を開けてはならないと釘を刺し、家を出た。これ以上、彼女と二人きりではいられなかった。

 私は机の上に置いた悪魔の実と睨めっこをしていた。当然、始末しなければならないのだが、心のどこかでそれを止める声がする。そう、いつの日か、私もこの薬を飲む日がやって来るかもしれない。しかし、もし何か起こってからでは遅いのだ。この薬が盗まれたらどうする? あの男が薬の存在を知って奪いに来たら……?
 ……な〜に、捨てるのはいつでも出来るさ。
 そんな風に安易に納得して、私は薬を仕舞い込んでから部屋を出た。誰かが尋ねてきたようだ。礼拝堂では、殺された男の妻が待っていた。
「少し、話を聞いて頂きたくて……」
 消え入るような声で言う婦人を座らせて、私は例によって形だけ十字架に向かって祈ってみせた。本来なら男の冥福を祈るのだろうが、所詮人は死んだら消滅するのみだ。死後の世界などという見た事もない物は私には信じられない。午後の光が十字架に反射し、見慣れているはずの鈍い金属の色が、何故か私を憂鬱にした。

4.

「憎しみの心を捨て切れないんです」
 婦人は静かにそう言った。激しい感情を感じない分、婦人の言葉には迫力があった。それはそうだろう。夫を殺されて平然としていられるわけがない。大事な人を殺されて、罪を憎んで人を憎まずなどと平然としている人間がいたら、そちらの方が異常なのだ。だが、それでも私は言わなければならない。
「御主人は犯した罪に比べて、重過ぎる罰を受けました。しかし、それは隣の御主人にしても同じ事です。彼が正気に戻った時、自分の犯した罪の重さに愕然とする事でしょう。彼はこれからの人生を、その罪を償う事に費やすのです」
 私の言葉は軽い。立派すぎて涙が出るほどだが、相手の心には届かないだろう。だが、このまま婦人が男を怨み続けるのは忍びない。一日でも早く立ち直ってくれることを願うのみだ。すぐには無理だろうが、時間が解決してくれるのを待つしかない。私は自分の無力さを呪った。

 婦人が帰った後、私は礼拝堂の掃除を始めた。日が暮れて、十字架が赤く染まっている。私は開けっ放しにしていた入口の扉を閉めようと扉に近づいた。鳥の鳴き声がする。彼らも家に帰る時間なのだろうか。小さい頃は、あの鳥の鳴き声を帰宅の合図にしていたものだ。服を泥だらけにして遊び、幼馴染みの女の子と手を繋いで家路についたのはいくつの頃だったか……。いかんいかん、あまりのんびりしていては日が完全に暮れてしまう。私は扉をなるたけ静かに閉めると、奥の自室に引き上げた。そう言えば、最近聖書を読んでいない。私は燭台を引き寄せて、聖書を開いた。この聖書は自分で書き写したものだ。修行の一環として、神父を目指す者は二冊の聖書を書き上げなければならない。その所々に誤字のある聖書を幾らも読まないうちに睡魔が襲ってきた。私は聖書を放り出し、寝床に入って蝋燭の火を吹き消した。眠りに落ちる前に、明日もう一度男の様子を見に行かなければと思った。
 ……雨が降っていた。雨の中、扉を叩く音がする。そうだ、確か幼馴染の女の子の父親が隣村に出かけている時、母親が急に倒れて、女の子は雨の中を走って私の家までやってきたのだった。私の父親はすぐに医者を呼びに行き、女の子の母親は大事には至らなかったが、女の子は風邪を引いてしまい数日寝込んでしまったのだった。近くの家に助けを求めただけなのだろうが、私は自分が頼りにされているようでなんだか嬉しかった。最近にも似たような状況があったような気がする。あれはなんだったか。あれは彼女の夫が……、そうだ、彼女には夫がいるのだ。どうしていつまでも私を頼りにするのだろう……。
 目を覚ましても、やはり雨が降っていた。まだ真夜中のようだ。扉を叩く音が聞こえる。まだ夢を見ているのかと思ったが、どうも気のせいではないらしい。私は急いで入口に向かった。いつもは掛けていない閂が掛かっている。そうだ、悪魔の実を盗まれては大変だからと昨日は閂を掛けたのだ。扉を叩く音は思ったより小さかった。こんなに小さな音で私は目を覚ましたのだろうか。扉を叩く者に、今すぐ開けます、と声を掛けてから閂を外した。内開きの扉を開けると、幼馴染の彼女が倒れ込んで来た。彼女は雨に濡れて、水に浸かったようになっていた。私は彼女を抱き留めたが、背中にぬるっとした感触を感じた。私の手は血に塗れていた。私は呆然とした。彼女の体は私にしがみつく力さえ失って床に崩れ落ちた。
「……」
 私は掠れた声で小さく彼女の名を呼んだが、彼女はもう何も喋らなかった。私は彼女の体をゆすってみた。生命を失った彼女の体はぐにゃぐにゃとして頼りなく揺れた。どれぐらい彼女の体を揺すっていたのだろう。気がつくと、雨の中に彼女の夫が手斧を持って立っていた。雨で洗い流しきれなかった血が、妙に目に焼き付いた。
「すいませんねぇ、神父様。うちのが迷惑掛かけちまったみたいで。けひっ」
 焦点の合わない目に、だらしなく開いた口。間違いなく悪魔の実を飲んでいる。この男はまだ隠し持っていたのだ。
「おまえが、やったのか」
 自分でも意外なほどしっかりとした、しかし感情のない声が出た。
「おまえが、彼女を殺したのか」
 繰り返して言うと、男は手斧を見せ付けて笑った。可笑しくてたまらないといった感じだった。
「そう怒らないで下さいよぉ。そいつが悪いんですよぉ? 素直に薬を渡せばいいのにさぁ。せっかく出してくれた部屋に戻れとか吐かしやがるんだもん。くひっ、ひ、ひ、ひひひひひひひひ……」
「薬が、欲しいか?」
 私は自分の意志とは違うものがそう言うのを聞いていた。私の体が勝手に動いている。いや、そう思い込んでいるだけかもしれない。これは私の意志だ。男は私の言葉を理解しているのかいないのか、狂ったように笑い続ける。
「待ってろ」
 私はただただ笑い続ける男に背を向けて自室に戻った。悪魔の実の入った小瓶を持って、礼拝堂へと戻る。体が勝手に動いている感じがする。体が熱い。体の中は燃えるように熱いのに、体の表面は冷めている。現実感が薄れて、今なら何でも出来そうな気がした。私はぴくりとも動かない彼女の横を通り過ぎ、教会を出て、笑い続ける男の側に行った。そして、小瓶の蓋を開け、中身を男の口に突っ込んだ。
「おまえの欲しがってる悪魔の実だよ。遠慮せずに飲めよ」
 私は男を押し倒し、馬乗りになって小瓶を押し付けた。男の手斧が私の体を傷つけたが、痛みは感じなかった。激しく降る雨がうっとおしい。そのうち、男に変化が現れた。目を見開いて、苦しそうに手足を振り回す。私は男から離れてそれを見ていた。男の全身に断続的に痙攣が走る。
「かはっ、かひっ」
 一度に大量の悪魔の実を服用すると、ショック死すると聞いた事がある。この男は身を持ってそれを証明してくれそうだと、私は妙に冷静に考えていた。何度目かの痙攣の後、男は動かなくなった。私はそれを見届けると、礼拝堂に入り、もう一度彼女の名を呼んだ。無駄な事はわかっていた。ただ、もう一度だけ、その名を呼びたかった。彼女の体は、雨に濡れたせいか、ひどく冷たかった。私はふらふらと礼拝堂を歩き、十字架の前で跪いた。
「神よ、私は誰に懺悔をすればよいのですか」
 言ってから、自分の言葉が可笑しくて笑った。笑いながら、私の頬には涙が伝った。私の笑い声はだんだんと大きくなっていったが、雨の音には勝てなかった。


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