[MainPage] [Back]

応援団物語 - [最後に]

 前兆は確かにあった。いや、それは前兆などというものではなく、我々は必然的な歴史の流れをそれと知らずに感じていただけなのかもしれない。過去の栄光はすでに忘れさられ、それを知るわずかな者のみが崩壊を食い止めようとしたが、彼らは大いなる時代の流れの前には全く無力であったのだ。

 毎年最低でも二人は確保出来ていた団員ですらまともに確保出来なくなり、応援歌練習をサボる新入生が増え、一人、また一人と団員が辞めていった。応援団は昔は恐れられていたものの、現在では嘲笑の対象にすらならない。見世物小屋の出し物のように思われていた時期ですら懐かしく思えるほどだ。そんな状況の中、何とか人数を確保しようと躍起になっていた折りに届いた一通の手紙。思えば、高専応援団の崩壊を明確に感じたのはこの時が初めてだったかもしれない。
 それは、福島高専応援団の団長からの手紙だった。手紙には、団長を除いた全員が揃って退団してしまったこと、そして、団長一人だけでは活動を続ける事適わず、福島高専応援団は廃団と相成った事が淡々と書き綴られていた。
 我々は愕然とした……いや、それは嘘だ。いつか、そう遠くない日にこうなる事はわかっていたのだ。それはどこの高専の応援団でも同じことで、もしかしたら我が電波高専が一番最初に潰れていたかもしれないのだ。

 以前に書いたように、ある高専では大会前に寮生を無理矢理団員にデッチあげていたが、それすら人数が確保出来なくなりつつあると聞く。正規の団員だけでやっている高専など、もはや風前の灯火である。各高専の応援団同士で話し合ったりもしたが、役には立たなかった。どの高専も自分の力で、自分の学校で出来ることはすべてやり尽くしていて、他校の団員確保の方法など聞いても参考にはならなかった。我々は学校の力を借りようとしたが、それも無駄に終わった。確かに学校側の協力で新入生を無理矢理入団させることは出来た。だが、再三の説得の末に本気で辞めたいと言ってくる団員を引き止める事は私には出来なかった。私の、そして我が応援団の主義に反するし、第一そのように嫌々やっているような団員では使い物にならないのだ。

 何度も繰り返し言うが、我々のようなアナクロな応援団に好き好んで入りたがる者はほとんどいない。年が経つ毎に誰かが応援団に入る確率は減っていくだろう。現代の、そして未来の若者にとっては応援団に入る事などまったく意味のない、興味すらない事なのだ。だから、応援団が消え去るのは止めようのないことなのである。
 我が仙台電波高専応援団は今(2004年)はまだ存在しているが、いずれは当然の如く廃団となるだろう。そしてそれから五年もすると、応援団が存在したことすら知らない学生たちが高専生活を送ることになる。これは悲しむべきことなのだろうか。否。時代に必要とされなくなった物が消え去るのは当然のことである。悲しむ必要はない。それに、応援団は完全に消え去るわけではないのだ。我々応援団の勇姿は、かつての団員たち、そして応援された者たちの記憶にしっかりと残っているはずである。もちろん私の記憶にも。目を閉じれば、私の前で、そして隣で、声を張り上げるかつての仲間たちの声が、勇姿が、非常に鮮明に、まるでその場にいるかのように浮かび上がってくるのだ。

 私はこの駄文を書くことで、応援団は素晴らしかったのだとか、潰してはならないのだとか、そういうことを伝えたかったわけではない。ただ、時代に逆行したかのような者たちがいて、叫び、歌い、悩み、そして最後まで叫び抜いたという事実だけを伝えたかったのだ。もし誰か一人でもこの文章を読んで、我々という存在がいた事を記憶の片隅にでも置いてくれたなら…………私の応援団団長としての最後の仕事は無事達成されたことになるのである。

 ……自分で書いてて笑ってしまったのは内緒だ。


[MainPage] [Back]